worksは8/24に更新しました.

体内文法

文章って、言葉に対して
さほど意識をしなくても、
書けてしまうものだなあと思う。
 
全部がそういう訳ではないと思うけど、
ツイッターとかフェイスブックとか
ブログとか、メールなんかは、
ほとんど言葉への意識が、
透明化しているような気がする。
 
言い換えると、
考えや気持ちがダイレクトに
書かれている、という感じがする。
 
語選の嗅覚とか、微妙な言葉の
置き方(省き方)とか
意外な取り合わせで例えるとか、
分かりやすく書く為の並べ方とか…
わかんないけど、
そういう言葉に対する意識を
持たないでもある程度は書けてしまう。
 

 
「書けてしまう」というのは、
一般的に共有できるものとして、言葉を
無意識に扱うことが出来るということ。
 
これは面白いことだなと思う。
 
つまり自分から言葉への興味を持たないでも
文章は書けるという不思議、これが面白い。
 
逆に言えば、
すでに言葉に対する高度な受信機が
潜在的に身に付いているということ。
 

 
きっと日本で生まれて暮らしていくうちに、
体内文法が自然と備わってくる。
神経系の働きと同じように、
(心臓などの内臓が勝手に働いてくれるように)
言葉を読み取り、書く、という体感が
自動的に働いている。
 
意識するしないに関わらず、
言葉に反応する機関が脳のどこかに
あることになる。
 
ぼくはその可能性は果てし無いと思う。
 
柳瀬尚輝が「日本語は天才である」という
本を書いていたが、
ぼくはこの「日本語を読み取る
体内文法もこそ天才である」と思う。
 
変な助詞の使い方には敏感であるし、
(極端な例「ぼくは家を帰る」等)
「こう来たらこうなる」みたいなものも
自動的に予測している。
 

 
文法書に沿った勉強よりも、
体内文法が「そう読んでしまう」ことに
ついての疑問を、これから
いくつか見つけていきたいと思う。
 

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