体内文法
文章って、言葉に対して
さほど意識をしなくても、
書けてしまうものだなあと思う。
全部がそういう訳ではないと思うけど、
ツイッターとかフェイスブックとか
ブログとか、メールなんかは、
ほとんど言葉への意識が、
透明化しているような気がする。
言い換えると、
考えや気持ちがダイレクトに
書かれている、という感じがする。
語選の嗅覚とか、微妙な言葉の
置き方(省き方)とか
意外な取り合わせで例えるとか、
分かりやすく書く為の並べ方とか…
わかんないけど、
そういう言葉に対する意識を
持たないでもある程度は書けてしまう。
*
「書けてしまう」というのは、
一般的に共有できるものとして、言葉を
無意識に扱うことが出来るということ。
これは面白いことだなと思う。
つまり自分から言葉への興味を持たないでも
文章は書けるという不思議、これが面白い。
逆に言えば、
すでに言葉に対する高度な受信機が
潜在的に身に付いているということ。
*
きっと日本で生まれて暮らしていくうちに、
体内文法が自然と備わってくる。
神経系の働きと同じように、
(心臓などの内臓が勝手に働いてくれるように)
言葉を読み取り、書く、という体感が
自動的に働いている。
意識するしないに関わらず、
言葉に反応する機関が脳のどこかに
あることになる。
ぼくはその可能性は果てし無いと思う。
柳瀬尚輝が「日本語は天才である」という
本を書いていたが、
ぼくはこの「日本語を読み取る
体内文法もこそ天才である」と思う。
変な助詞の使い方には敏感であるし、
(極端な例「ぼくは家を帰る」等)
「こう来たらこうなる」みたいなものも
自動的に予測している。
*
文法書に沿った勉強よりも、
体内文法が「そう読んでしまう」ことに
ついての疑問を、これから
いくつか見つけていきたいと思う。
2012/09/16