worksは8/24に更新しました.

からだから無限のレシート

ずいぶん前のことなのに、
やたらと覚えていることがありまして…

それは「チャボとけやきと泰山木」
というタイトルの本。
もう10年くらい前に買った本なのに
なにかの折にふれてときどき思いだすから
すっかり記憶に定着してしまった。

内容は、小学校の子どもたちが
校長先生へ宛てた詩をまとめた本で。
たとえば、こんな詩があります。

わたし(五年生女子)

わたしは自分がやになるときもあるの
でも自分がいいなあとおもうときもあるの
そういうときは どうすればいいのかな

けやき(三年生女子)

けやきを下からみていると
はっぱがゆれているけど
けやきをななめからみると
けやきのみきも
ゆれているようだ

とこんなかんじ。
大人になるにしたがって
実用的な言葉こそが大事になってくる。
だから、いまこういう詩を読んでも
なんてことのない感じがしてしまう。

大人はもっと、

〇日になにがあるとか、
なにを買ってくるとか、
こんな理由があってこうなんですとか。
すべてが意味のボールとなって飛び交う。

そのかわり、というのか
感じたこと、なんだかいいなと思う
透明な気持ちは、だいたい
「すてき」や「かわいい」で済まされる。

もしくは感じたけど、
幽霊や迷信でも見るような感覚で、
自動的にリセットしてしまっている。

本当は「わたし」自身を
嫌だと何度も思うし
好きだとも思うのに、
そこにはっきりと実用的な意味が
見いだせないわれらは
あたかもなにもなかったように
日々を進んでいく。

けやきの木を見上げてきれいと思っても
それが誰かに伝えるべきトピックとしては
役に立たない、と思って、それ以上
「きれい」の先を味わうのをやめる。

そんなことないって思いつつも、
自分だってそんな大人の一人なんだ。
と、この本を読んで身につまされる。

そもそも意味もない役にも立たないのに
どうして詩を書く必要があるの?

という答えとして、
この本にはこんなふうに書かれています。

「感じたことを把握する力、その力の
集積を根気強く続けること。」

文章力でもなく、想像力を
豊かにするでもなく、
創造をかきたてるでもなく…
把握する力か。

そのとき、
ぼくの中からレシートが
しゅるるるっと、永遠にはきだされている
イメージがうかびました。

自分が感じたことが
ことこまかに記されたレシート。
しかもそのほとんどを受け取らずに
捨ててしまう。

詩を書く、ということは
そのレシートをつかんで読むこと。
ただそれだけ。
弱点を伸ばす、できないことを克服する
のではなくて、
それぞれの自分を見つめて把握する。

それならできそうという気がしてくる。

自分のなかに「からだ」という
レシートを発行している
もうひとりの自分がいる…
ということなんだよな。

突然へんなたとえだけど
海中に泳ぐ亀のせなかを小魚が
つんつんとしている映像をみたときに
「自然と一体となって雄大に生きているなあ」
と思ったりする自然そのものが
じつは自分のなかにもあって、
それが見えないレシートを常時
吐き出し続けている。

すべてをつかみとるのは
難しいんだけど、
一日に、一つくらいは把握しておきたいな。

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