ことばあそびを実装せよ
地口といって、
似た言葉を並べて、
音をたのしむ遊びが
江戸時代にあった。
いわば、もじりやダジャレ。
たとえば、今でも
・「すみま千円」や
「いただきマウス」など
一つの言葉にくっつけたり、
・「ゴディバ」を「ゴリラ」に
「ショートケーキ」を「消毒液」に
聞き間違えるようなことや、
・「猫に小判」を「下戸にご飯」と
わざと言い間違えて洒落たり。
江戸時代には、
こういうことばあそびを日常で
楽しめるような素地が
あったようだけれど、
今のぼくにしたら、
ぜんぜん面白いと思えない。
何が面白くないかというと、
言葉遊びそのものが、というよりも
用途が不明という点において
意味を見出せないというのが
おもしろくない。
*
一方で、
同じ地口の言葉遊びをつかって
面白いと思える、
そして、実用的だと思える例がある。
国は変わって、
イギリスはオックスフォードの
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン
という人の手紙に、その実例がある。
ペンネームはルイス・キャロル。
「不思議な国のアリス」の作者である。
彼は、弱者、子どもを敬愛し…
(もっとストレートに言うなら)
明らかなロリコン体質である。
『少女への手紙』(新書館)
を読むと、その愛と傾倒の深さに
見仰いでしまう思いとワクワク感を
覚えずにはいられない。
いわゆる書簡集なのだけど、
送り先の相手は99%女の子。
彼女ら(中には男の子もいるが)に
対するサービス精神というか、
エンターテイナー精神が半端ない。
当時大学で教員をしていた彼は
手紙の中でこんなふうに
自分の仕事っぷりを説明する。
「ぼくの生徒はたった一人しかいませんが」
「一番大事なことは、」
「先生が威厳にみちていて、
学生から距離を保つことです。」
(以下簡略引用)
というわけで、ぼくは
扉から一番遠いところに座ります。
教室には誰もいなくて、
ドアの外に召使が一人。
そのもう一つのドアの向こうに
二人目の召使が座っている。
階段の途中の踊り場に
三人目の召使。
そして、最後、中庭に学生が
座るのです。
ぼくたちは、順ぐりに質問を
大声で叫びます。
こんなことだから最初は
まごつくこともあります。
たとえば、
私「3×3はいくつか?」
第一の召使「アンけるパンはいくつか?」
第二の召使「天駆ける雁はいくつか?」
第三の召使「半かけの椀はいくつか?」
学生「(おずおずと)
まあ、4ポンド半くらい…」
(これを聞いた召使が折り返す)
第三の召使「ああ、あんぱんが半分くいたい!」
第二の召使「ああ、パン種がほしい!」
第三の召使「あんたはアンポンタンだ!」
それを聞いて、
私は少しむっとする。
~中略~
こういった具合に授業は進むのです。
人生も同じようなものです。
*
これを読むと、地口のような手法を
使っているのが分かる。
なのに、冒頭の例よりも面白い。
その理由は…同じ地口なのに、
1、伝言ゲームという状況を設定し、
2、かつ自分の仕事っぷりを紹介する
というストーリーを持っており
3、手紙という会話ツールの中で
効果的に「地口」が実装されている。
これは、単に地口をダジャレのように
つぶやくのとは、
伝わり方も、効果も、面白さも
ぜんぜん違ってくる。
2018/05/22