worksは8/24に更新しました.

幼児性の解放

展示まであと一ヶ月なのに、
作品の文案がほぼ出来上がっていない。
 
白紙状態、とまではいかないけれど、
ほとんど白紙。
 
入稿期限をかんがえると、もっと
危機迫るものが込み上げてくる。
 
そもそも、こんどの展示で
どんなことがしたいのだろう。
 
それで文案の方向もさだまってくる。
 
なんだろう、うーん、とにかく
「異様な熱気」を感じてほしい。
と考えている。
 

 
言い換えると、
内なる気持ちの解放、
というようなもの。
 
いやあ、じぶんでは納得した
言い方なのだけど、
改めて書くと変な言い方になる。
 

 
言葉の使い道っていうのは、
だいたいが会話やメールなんかの
コミュニケーションとしてでしかない。
 
ブログやミクシーや、ツイッターや、
フェイスブックみたいなものも、
対外的な「わたしの言葉」として
発する。
 
つまり言葉が自分のものである。
ということになる。
あるいは、だれかのものである言葉を
見ていることになる。
 
その人のことが
言葉よりも見えてきちゃうし、
なにかおかしな表現などがあると、
そのひとの人格を疑ってしまったり
する。(される。)
 
だから、なるべく人は丁寧に言葉を
選ぼうとするし、
良い言葉が人格を形成する、
といったりもする。
 
それは本当にそうなのだとおもう。
 
でも、ことばを大切だなんて思うと、
とたんに息苦しくなる。
 
もっとデタラメで、
ハツラツとしていて、
狂ったようになる、
勘違いがある、
または神さまのお告げのような
異常な力をもったりもする。
 
そういうものって、
意図してある文章というよりも
無邪気な子どもの幼児性とか
偶然そう読めてしまった、という言葉とか、
なんだか分かんないけど、この一節に
ハッとしてしまった、
という「誰の所属でもない言葉」が
あるのだと思う。
 
知らないうちに、
言葉とは、こうあるべきという
恐れる思いに押さえつけられていたものを
一気に解放してやろう、
という試みを作品に込めたい。
 
と、書いたけれど、
本当はもっと混沌と
いろんな考えがあって出来ているから、
これも、
そのうちのひとつってことに過ぎない。
よくわからない。
 

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