運命の理想像
自動販売機の前に立つと、
数本の分かれ道がある分岐点に
立っている、という気に囚われる。
ホットコーヒーか、十六茶か、
コーンポタージュか、おしるこか。
「いま何をのみたいか」に加えて
これを買うことによって、
どんな未来が待ち受けているのか、
と想像してしまう。
例えばコーヒーなら、このあとトイレに
気軽に行けない状況があるから
いまは止めておこう、とか。
十六茶は、お得な大容量で600mlも
入っているから、すぐに飲みきれず
バッグの中で荷物になってしまうだろう
とか。
おしるこだったら、いまここで
ぜんぶ飲みきれる量だし、
あたたかいし甘いし、幸せなキモチに
なれるかもしれないな、とか…
そういう、ほんの少し先の未来が
逡巡する。
そしてそこには正解と不正解が
あるような気がしてならない。
*
昔、小学校から帰ってきたとき、
おばあちゃんが話しかけてきた。
「ヒレカツと卵とじどっちが良い?」
夕飯のメニューのことである。
ぼくはどちらでも良かったのだけど、
ヒレカツ、と答えた。
「ええ、ヒレカツ?
お昼に肉屋さんでカツを
買ってきたんだけど、時間経ったら
湿気ってきちゃって、
卵とじにしようかと思ってたんだけど」…
この時に思った。
運命というものはコンパスのようであると。
運命の理想像を常に
指し示している方位磁石を各々携えていて、
それに従おうとしているものだ、と。
おばあちゃんは、「どっちがいい」と
尋ねながらも、ほんとうはもう
卵とじを心に決めているのだ。
占いを引いて、
しっくりくる!という人や、
あまりピンと来ない、という人もいて、
「ピンと来ない」となんだか物足りない。
それは、自分の中の正解や理想像
(コンパスの方角)と占いの結果が
違う方を向いてしまっている、
ということなのだと思う。
気が付かないうちに
主観的な正しさをいつも
自分の中に持っていて、
ささいなことの運命を決定づけている。
おしるこを飲みながら、
そんなことを考えていました。
2012/12/07