異文化への憧れ
お店でコーヒーを飲んでいると、
三回に一回くらいは、辺りから
こんな台詞が聞こえる。
「ああ、ディズニーシーいきたーい。」
どの声もため息まじり。
それを聞いて心の中で
「ぼくもー」と思います。
あの憧れ感はものすごい。
どこからそういう気分が湧いてくるのか。
司馬遼太郎に「文明と文化について」という
エッセイがある。
四十代まで海外旅行をしたことがない
という著者は、
「行かないことに、理由があるのです。」
と言い訳まじりにいったそうです。
(以下引用)
*
空想のなかで海外をおもうというのは
じつにたのしい。それは三角定規を
そっと立ててみるようなきわどさで、
むろん現実には立ちはしない。
しかし立ててみようとするたのしみは
無上のものです、
となかばうろんくさい。
*
異文化への憧れ、ということだとおもいます。
そもそも文明と文化について、
彼はこのように区分していました。
「文明はまず民族(文化)を
越えていかなければならない。」
これは普遍性の高いものということ。
山奥の民族がipodでレディ・ガガを
聞いていたなんてことは、よく聞く話。
ipodは民族を超えて使われている文明。
「しかし、文明はかならず衰える。
…(中略)普遍性をうしない、
後退して特異なもの(文化のこと)に
なってしまう。」
モンゴル人民共和国という国では
現在でも遊牧民族がおり、
馬乳酒とよばれる無糖のカルピスを
ドンブリ一杯ずつ日に四杯も飲むらしい。
紀元前の頃は文明として広がっていたが、
現在でスターバックス•コーヒーで
馬乳酒というメニューは出しようもない。
これは異文化ということとなる。
交通文明や法の文明がどんどん現代的、
日常的になっていくのと相反して、
過去の文明であった不合理なものたちが
エスニック(異文化)として変化する。
私たちは文明に接する機会があっても
異文化に接することはほぼない。
想像の世界。そこに空想と憧れと郷愁が
凝りのようにかたまるのも不思議ではない。
*
おもえばディズニーシーって、
異文化の集合体じゃないか、と気がつく。
文明とは切り離された世界を歩くことが
出来る、まさに空想の世界。
ここに憧れ感が生まれているんだなあ。
2012/11/03