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星座占いはなぜ毎日ちがうのか

久々に歯の検診に行ったら、
歯の磨き方を改めないと通院するはめになる、
と怖い笑顔で告げられた。

たしかに、いままで歯を磨く時間は、
ぼーっと無意識か、スマホか本かテレビを
眺めながらだった。

「歯を磨くことと向き合おう」と決心し
それでその日を終えた。

そして、3日経って気が付く。
これって、いつまで続けなきゃ
いけないのかな…。

たとえば1か月我慢すれば解放される、
というならまだしも…
でもそうじゃない。
歯磨きは死ぬまで毎日繰り返す…

そう考えて、絶望じみた気分になる。

なんでそう思うかっていうと、
今日の自分と、昨日の自分は違うから。

昨日の決意が、今日あるとは限らない。
先週いいことがあっても、
今週それが持続するとは限らない。

全然関係ないかもしれないけど、
去年気に入ってずっと聞いていた音楽が
今年はまったく気分にはまらない、
なんていうこともよくある。

それでも、歯医者の受付で
返却された保険証には
「にしむらゆうき」と記載されていて、
これは明日になっても、
来年になっても変わらない。

そして、数か月後に、
また同じ保険証をもって検診を
受けることとなる。
「歯を磨くことに向き合う」を
ちゃんと続けていましたか?と。

今日と昨日で違う自分と、
「生きているうちはずっと同じ人」
という約束と、
二つに挟まれているような
イメージが思い浮かぶ。

星座占いでたとえると、
ぼくが、やぎ座であることは
変わらないのに、
日々の占いのランキングはいつも
上下している。
同じなの?日々変わるの?
どっちなの!?
…ということにも似ているか。

うーん、でも、
普通は、日々刻々と違う自分であると
思わないのかもしれないな。

中学生の頃、国語の先生に
「これからずっと自分は変わらない、
と思う人は手をあげてみて」という質問に
迷うことなく手をあげたのを
覚えている。
「だってぼくは、ぼくじゃん」と。

同時に、ぼくってなんだ?と
頭の中で反芻しだすと、
まるで宇宙の暗がりに吸い込まれて
いくような、
怖くて頼りない気分になったのも、
思い出す。

なんで、ぼくはぼくなんだ?
だれが、そうしたんだ?
いつ芽ばえたの?
いつか、なくなっちゃうの?
…と。

養老孟司「遺言。」(新潮新書)
南直哉「老師と少年」(新潮文庫)
の2冊がまさに、その問題を語っていて、
読めば答えが分かる、というわけでは
ないけど、
「自分を分かりたい」
「唯一無二の自分をもちたい」
「個性的でありたい」という欲求について
自覚することはできるかもしれない。

とはいっても、実のところ、
自分が自分で居続けるということが
実はとてもあやふや。

一緒にいる人によって自分の感じが
変わるとか、
機嫌がいいときもあれば、
そうでないときもあって、
星座占いは毎日違うし、
すむ場所、付き合う人がかわれば
自分も適応していく。

じゃあどれが本当の自分なの?
みたいな。
本当の自分が分からないってことは
今は偽の自分なのかっていう。

そして「本当の自分」を「本当だ」と
認定したがるのは、
本当の自分を知らない自分なわけで、
それは信用できるのかと。

…そんなようなことを、
南直哉さんが言っていた。
(南直哉さんは20年永平寺で
修行されたお坊さん)

自分はまわりの人や環境で、
刻々と変わっていくもの。

すると自分の中心はからっぽでいて、
それでいいのでは、とも。
「今、どうなの?」という事の方が
過去や未来のこと(自分の個性という幻)を
考えるより大切なのかなーと。

まったく話は変わるけど、
「くうき」を題材にひとつ作りたいと
思っていて、

くうきをどんな存在で扱おうかと
考えてまして、
くうきはしゃべるのか、
くうきに「ぼく」「わたし」という
一個人としてのキャラクターが
適切かとか。

いやー、くうきこそ、周りの気圧、
温度、水分量、塵の含有もろもろの
影響ひとつでいまここでどんな
状態かが決まる。

要するに、空気に「わたし」は
ないように思える。

ちいさな虫の体の一部として宿る
ときもあれば、
上空1万メートルで、猛烈な風となって
吹いていることもある。

どれもくうき。究極の無私というか。
禅にちかしい存在なのかもな、と。

くうきのことを調べたり、考えていくと
気持ちが浄化されるような
気分になるのはそういうことなのかも。

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