星座占いはなぜ毎日ちがうのか
久々に歯の検診に行ったら、
歯の磨き方を改めないと通院するはめになる、
と怖い笑顔で告げられた。
たしかに、いままで歯を磨く時間は、
ぼーっと無意識か、スマホか本かテレビを
眺めながらだった。
「歯を磨くことと向き合おう」と決心し
それでその日を終えた。
そして、3日経って気が付く。
これって、いつまで続けなきゃ
いけないのかな…。
たとえば1か月我慢すれば解放される、
というならまだしも…
でもそうじゃない。
歯磨きは死ぬまで毎日繰り返す…
そう考えて、絶望じみた気分になる。
…
なんでそう思うかっていうと、
今日の自分と、昨日の自分は違うから。
昨日の決意が、今日あるとは限らない。
先週いいことがあっても、
今週それが持続するとは限らない。
全然関係ないかもしれないけど、
去年気に入ってずっと聞いていた音楽が
今年はまったく気分にはまらない、
なんていうこともよくある。
*
それでも、歯医者の受付で
返却された保険証には
「にしむらゆうき」と記載されていて、
これは明日になっても、
来年になっても変わらない。
そして、数か月後に、
また同じ保険証をもって検診を
受けることとなる。
「歯を磨くことに向き合う」を
ちゃんと続けていましたか?と。
*
今日と昨日で違う自分と、
「生きているうちはずっと同じ人」
という約束と、
二つに挟まれているような
イメージが思い浮かぶ。
星座占いでたとえると、
ぼくが、やぎ座であることは
変わらないのに、
日々の占いのランキングはいつも
上下している。
同じなの?日々変わるの?
どっちなの!?
…ということにも似ているか。
うーん、でも、
普通は、日々刻々と違う自分であると
思わないのかもしれないな。
*
中学生の頃、国語の先生に
「これからずっと自分は変わらない、
と思う人は手をあげてみて」という質問に
迷うことなく手をあげたのを
覚えている。
「だってぼくは、ぼくじゃん」と。
同時に、ぼくってなんだ?と
頭の中で反芻しだすと、
まるで宇宙の暗がりに吸い込まれて
いくような、
怖くて頼りない気分になったのも、
思い出す。
なんで、ぼくはぼくなんだ?
だれが、そうしたんだ?
いつ芽ばえたの?
いつか、なくなっちゃうの?
…と。
*
養老孟司「遺言。」(新潮新書)
南直哉「老師と少年」(新潮文庫)
の2冊がまさに、その問題を語っていて、
読めば答えが分かる、というわけでは
ないけど、
「自分を分かりたい」
「唯一無二の自分をもちたい」
「個性的でありたい」という欲求について
自覚することはできるかもしれない。
*
とはいっても、実のところ、
自分が自分で居続けるということが
実はとてもあやふや。
一緒にいる人によって自分の感じが
変わるとか、
機嫌がいいときもあれば、
そうでないときもあって、
星座占いは毎日違うし、
すむ場所、付き合う人がかわれば
自分も適応していく。
じゃあどれが本当の自分なの?
みたいな。
本当の自分が分からないってことは
今は偽の自分なのかっていう。
そして「本当の自分」を「本当だ」と
認定したがるのは、
本当の自分を知らない自分なわけで、
それは信用できるのかと。
…そんなようなことを、
南直哉さんが言っていた。
(南直哉さんは20年永平寺で
修行されたお坊さん)
*
自分はまわりの人や環境で、
刻々と変わっていくもの。
すると自分の中心はからっぽでいて、
それでいいのでは、とも。
「今、どうなの?」という事の方が
過去や未来のこと(自分の個性という幻)を
考えるより大切なのかなーと。
*
まったく話は変わるけど、
「くうき」を題材にひとつ作りたいと
思っていて、
くうきをどんな存在で扱おうかと
考えてまして、
くうきはしゃべるのか、
くうきに「ぼく」「わたし」という
一個人としてのキャラクターが
適切かとか。
いやー、くうきこそ、周りの気圧、
温度、水分量、塵の含有もろもろの
影響ひとつでいまここでどんな
状態かが決まる。
要するに、空気に「わたし」は
ないように思える。
ちいさな虫の体の一部として宿る
ときもあれば、
上空1万メートルで、猛烈な風となって
吹いていることもある。
どれもくうき。究極の無私というか。
禅にちかしい存在なのかもな、と。
くうきのことを調べたり、考えていくと
気持ちが浄化されるような
気分になるのはそういうことなのかも。
2020/09/19