worksは8/24に更新しました.

俳諧は夢のなか

言語化できないことって
じつに膨大にあるのだなと思う。
 
けれども「言語化できない」だけあって
それが何であるか、どこにあるか、
肝心なところが見えにくい。
 

 
眠った時に見る夢なんかは、
そのひとつではないかと思う。
 
見ているときは細かい所まで
本物だと思って見ている景色も
朝起きた瞬間に忘れてしまう。
 
それにとても奇妙。
 
夢を見るというのは
記憶と記憶を整理する際に
澱となって沈んでいた過去の体験が
スノードームみたいに
ぐるぐると舞うようなこと。
 
この混沌とした記憶同士の
取り合わせによって、
こちらの世界とは違った
異質な風景が現れてくる。
 
普段では組み合わないものごとが
当たり前のように広がっている。
 
そしてそれが、なにかの快感とか、
さみしいとか、嬉しいなどの気持ちとして
起き抜けに残る。
 

 
言葉でも同じことはできるか。
 
俳句にも、
意外な単語を並べる「取り合わせ」という
句法があるようだけれど
これは脳内で起きている「夢」の現象を
言葉の上でやっている、
ということではないだろうか。
 
そしてそれが、面白いとか
かわいいとか気持ち良いとか、
たのしそうとか、冷んやりしているとか
そういう何かしらのトーンを
帯びるているのである。
不思議なことである。
 
つまり、文法的には
意味を持たないはずなのに
なにかしら伝わっている感覚がある。
 
坪内稔典の本を読んでいると
これは現実の風景ではなくて、
言葉の風景である、という。
 
作者の体験を離れて、
言葉が読者の間で成長するように。
ということのようだ。
 
ふーむ、深い森のなかに
踏み入ってしまったような気分。
 

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