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ことばあそびとは無個性

今回も俳句について。
前回は「なるほど感」がある句についてでした。
つまり現実の状況として成立する句。
 
だけど今回は意味のわからない句について書きます。
意味はわからないけど、なんかいいなと思うもの。
 
そういう句の名手(そんなに知らないけど…)は
坪内稔典。「水のかたまり」(ふらんす堂)より。
 
こんなもの。
 
頭ならごしごし洗え桃の花
 
初蝶の黄色あなたがこぼしたか
 
みんな留守リンゴの蜜の気化したか
 
ふつうの文章と思わない方がいい。
しゃれた広告のキャッチフレーズみたいなもの
だと思って見ていると、なんとなく雰囲気が
良さそうに思えてはこないか。
 
そもそも意味では伝わってこない。
「頭ならごしごし洗え」まではわかる。
「桃の花」がなんで桃の花なのか、
どういう状況なのか、匂いなのか、色なのか、
よくわからない。
つまり、言葉の意味というか、文法として
正常ではないとわかる。
 
「初蝶の黄色」まではわかる。
「あなたがこぼしたか」これも単独でみれば
意味はわかる。
けれど、このふたつ関係なくない?
と思う。
蝶々の黄色を?こぼした?おれが?はあ?
みたいな。
 

 
捉え方を変えてみよう。
 
単語には言わずもがなのイメージがある。
「雪」というと、自動的に「冷たい」「白い」
というイメージがくっついてくる。
 
「おもち」なら「やわらかい」「白い」。
「ミルク」でも「あまい」「白い」。
 
こういうふうに一つの単語にはいくつかの
表現の可能性が含まれている。
言ってみれば匂いのようなもの。
 
それを組み合わせると、付随するイメージも
また絡まり合う。
上記した3つの例の共通点は「白い」である。
だから結びつけても違和感がない。
たとえばこんなふうに。
 
「雪見だいふくミルク味」
 
冷たさ、やわらかさ、甘さこの三つが
白いというトーンにきれいに収まって、
おいしそうというイメージに繋がる。
 
逆にちょっとふざけるなら、
「あったかい雪」「すっぱいミルク」
「茶色いおもち」とか。
付随しているイメージを崩すと気持ち悪くなる。
 
こういう付随するイメージって、
なんでだか知らないけど、いつの間にか
反射神経のように自動的にそう思ってしまう。
それに、かなり大多数の人が同じような感覚を
共有している。
…というか、そうでないと、ぼくたちが
日本語で会話できないしね。
 
ともかく、言葉に含まれるイメージを拡張させて、
関連させて、思いもよらぬ面白さ、雰囲気を
作り出すことができる。
 
みんな留守リンゴの蜜の気化したか
 
であれば、「気化したリンゴの蜜」には
味気のない不抜けたイメージがある。
そこに「みんな留守」という状況を付け加えると
せっかく甘い蜜を期待していたいのに、
みんな留守でとってもすかすかした、
つならない気持ちになった。というような感触がある。
 
気持ちの表現を、「まったく別の現象」と
関係させることでより直接的にあらわしている。
 
「あーせっかく/来たのに留守で/つまらない」
状況説明の意味としてはこう書いても、
大差ない。
でも、これだと、言葉にできない感覚までは
伝えることができない。
 
作者はきっと、なにか「蜜の抜けたリンゴ」を
留守で誰もいなかった気持ちの代替え表現として
ピッタリだと思ったのだろう。より直接的に伝わる。
ことばによるイメージの読み書きこそ、
こういうタイプの俳句である。
 
まったく関係のないものどうしを結びつけて、
(そのことばに「付随するイメージ」の方を優先的に
掛け合わせる変数と取ることで…(うまく言えん))
新たなニュアンスや雰囲気を生み出すことを
俳句の世界では「取り合わせ」と呼んでいるようだ。
 

 
突然話が変わるようだけど、ことばあそびは、
「個性のない」ものだと思う。
 
わかりやすく言うと、個性のあることばがあるなら、
それは誰にも通じないもの。自分だけがわかるもの。
そこで完結してしまえる。
 
ことばあそびの面白さは、
ことばに対する共通認識から派生している。
みんなが無意識に言葉と接して思う「なにか」を
意識化して表現にする。
みんながそうそう、知っているという領域で
つまり、言葉の無個性の部分=人の脳と、
ことばの間に(誰にでも)生じる可能性のある現象を
面白がることなんだ。

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