読書への小径
本を読んで「楽しむこと」と
読書して何かの「役に立てよう」
ということの間には、
差異があると思います。
それが顕著にあらわれるのは、
他人に、その本の良さを伝えよう
という時。
読んだ本が
どんなに面白いと思っても、
いざその本のことを
だれかに話そうとすると
曖昧な言葉しか出て来ないことが
頻繁にあります。
「あれはね、こう、なんだろう、
えーと、ほら、面白いんだよね。」
という具合。
苦しいし、もどかしい。
面白がったはいいけれど、
こんなことで本当にじぶんは
「本を読んだ」と言えるのか、
と自問自答してしまいます。
すごいな、と思うのは、
本の寸評を書く人。
それも、こちらを本屋に走らせて
しまうくらいの力をもった人。
思い当たるところで言うと、
荒川洋治と宮崎駿がそう。
*
荒川洋治「世に出ないことば」は
読書を中心としたエッセイ集。
そこに「ブラックバード」という
エッセイがあります。
正宗白鳥の「入り江のほとり」を
読んだという文章なのですが、
その中で小学校の代用教師である
「辰男」が英語でひとり遊びを
している様子に着目している。
諸処ある要素の中でも、
英語で好きな単語を勝手に創作する
という面に話題の中心を据えている。
なんと面白そうなんだ、と次の日に
本屋に向かいました。
*
宮崎駿「本へのとびら」では
ケネス.グレーアム「たのしい川べ」
(挿絵E.H.シェパード)の寸評として
こんな文。
「まあなんと上手なさし絵でしょう。
絵を見ているだけで充分満足します。
この画家がアニメーションをやったら
ものすごく腕の良いアニメーターに
なったでしょう。
それなのに、ぼくは何回読みかけても
この本をさいごまで読めません。
まったく不思議なことです。」
これで全文。
そして案の定、その日のうちに、
本屋に求めに電車に乗りました。
彼は絵に着目していた。
これらのハッキリとした着目点が
自分の興味とマッチするように思えた。
それだけで「充分満足します」。
「意識」した人の読み方は、
自分のためならず、人の役にも立つ。
本を読む/見る「視点」を与えてくれます。
本という荒れ地に小径をつくって
案内してくれる。
でも問題はここから。
じぶんだったらどう読むだろう。
2013/02/03