見られテリトリー
ふと自分のことを、
ださいなー、と思うことがある。
誰なら共感してくれるのか
分からないけど、
ずっと家でこもっている日に、
「ちょっとそこまで」って
気分転換でコーヒーを買いに
行くようなとき。
コンビニでも、ドトールでも
どこでもなんだけど、
さっきまでの家にいた
もわもわ感がとれないまま
蜘蛛の巣をかぶった気持ちで
人前に出たような気分。
あれはなんなんだろう。
ださいと思えてしょうがなくなる。
お金を差し出す腕の袖から、
パジャマ同然の長袖シャツが
ちょろんとのぞく。
うわー、やめてくれー!
早く帰りたいよー!
という具合になる。
髪の毛も半寝ぐせで、どことなく
ふかふかしている。
部屋にいる時にはまったく普通の
つもりだったのに、
突然ださくなったようだ。
*
思いかえすと、あれは、
見られている意識レベルの違いだと
おもった。
「どこまで見られているか」
と思うことと、
「どこまで身だしなみの気が届くか」
ということが、
完全に比例関係にある。
家にいると意識は目を中心として
半径5センチくらいにしか届かない。
当然、どんな服を着ていようが
どんな表情をしていようが、
構わない。存在しないものなんだ。
*
一方、和服美人はどうだろう。
和服美人はうなじが命なのだそうな。
ぼくにしたら、うなじなんて
襟やえりあしで隠れているので、
完全に死角なのである。
そこが汚れていようが、
ださかろうが、全く気がつかない。
でも、その和服美人は、
うなじも見られていると意識するおかげで
しっかり手入れをしているに違いない。
うなじを司る脳細胞も
さぞかし発達していることだろう。
*
「テレビに出ている人は
始終、人に見られているので、顔つきも
経験とともに、いい感じに変わっていく」
と聞いたことがあるけど、
それと同じで、
「身だしなみ神経」のテリトリーを
どこまで通電させることができるか、
ということが、
ださく「なくなる」秘訣だと思う。
むりだな。
2015/01/08