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自分だけの、じゃない時

歌を聞いていて「詞」がいい、
と思うことがある。
 
なかでも、星野源の「未来」。
この曲のクライマックスに、
「たったひとつだけをきみはもっている」
というフレーズがあるんだけど、
それを口ずさむときに、ぼくは、
「たったひとつだけをぼくはもっている」
とつい歌ってしまう。
 
この歌は自分だけのもの
と思って聞いてしまっているのだ。
冷静になると情けないのだけど、
一人で思っている分には、
とてもここちよいものでもある。
 
だけど、もし仮に、
他のだれかが、自分と同じように
「この曲は自分だけのものだ」と
思っていると知った途端、
なんだかしらけてしまうような気がした。
 
あれはなんなんだろう。
 

 
これと似た現象がある、おみくじだ。
殊に大吉をひいた時なんかそうだ。
 
これが出ると、天から授けられた
他の誰のものでもない、
選ばれた自分のためだけに
よこされた報せ、だと思う。
 
そう思えるからこそ、
ありがたみが増す。
漢語調の文章のひとつひとつを
自分にあてはめながら、
そうか、そうか、と心得た気になる。
 
しかしfacebookというものが
あらわれ始めた数年前から、
この感覚がゆらぎはじめた。
 
お正月になると、みんなが、
大吉の写真を載せるようになったのだ。
 
それをみると、
自分がひいたような大吉と、
自分がひいたような文章に
やはり「その人」なりの解釈をして、
今後にただならぬ期待を膨らませている。
 
ああ、と思う。
大吉が急に安っぽく感じられる。
 
八方美人の神様に「してやられた」
という感じに激しく襲われる。
 
自分のものだけであってほしい。
という感覚は絶えない。
 

 
小学校来の友人が
結婚することになった。
昔から馬鹿な話をしたり、
ふざけたりするような仲だった。
 
いまなお親友と呼べそうな間柄。
 
しかし、式にむかうと、
ぼくの知らないたくさんの人が
彼を讃え、楽しそうに
馬鹿げた話をしている。
 
当たり前なんだけど、
さみしい気持ちになる。
 
こういうのも、さっきの大吉と
似ている感じなんだよなあ。

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