自分だけの、じゃない時
歌を聞いていて「詞」がいい、
と思うことがある。
なかでも、星野源の「未来」。
この曲のクライマックスに、
「たったひとつだけをきみはもっている」
というフレーズがあるんだけど、
それを口ずさむときに、ぼくは、
「たったひとつだけをぼくはもっている」
とつい歌ってしまう。
この歌は自分だけのもの
と思って聞いてしまっているのだ。
冷静になると情けないのだけど、
一人で思っている分には、
とてもここちよいものでもある。
だけど、もし仮に、
他のだれかが、自分と同じように
「この曲は自分だけのものだ」と
思っていると知った途端、
なんだかしらけてしまうような気がした。
あれはなんなんだろう。
*
これと似た現象がある、おみくじだ。
殊に大吉をひいた時なんかそうだ。
これが出ると、天から授けられた
他の誰のものでもない、
選ばれた自分のためだけに
よこされた報せ、だと思う。
そう思えるからこそ、
ありがたみが増す。
漢語調の文章のひとつひとつを
自分にあてはめながら、
そうか、そうか、と心得た気になる。
しかしfacebookというものが
あらわれ始めた数年前から、
この感覚がゆらぎはじめた。
お正月になると、みんなが、
大吉の写真を載せるようになったのだ。
それをみると、
自分がひいたような大吉と、
自分がひいたような文章に
やはり「その人」なりの解釈をして、
今後にただならぬ期待を膨らませている。
ああ、と思う。
大吉が急に安っぽく感じられる。
八方美人の神様に「してやられた」
という感じに激しく襲われる。
自分のものだけであってほしい。
という感覚は絶えない。
*
小学校来の友人が
結婚することになった。
昔から馬鹿な話をしたり、
ふざけたりするような仲だった。
いまなお親友と呼べそうな間柄。
しかし、式にむかうと、
ぼくの知らないたくさんの人が
彼を讃え、楽しそうに
馬鹿げた話をしている。
当たり前なんだけど、
さみしい気持ちになる。
こういうのも、さっきの大吉と
似ている感じなんだよなあ。
2015/05/10