濃い言葉?
夏目漱石や、正宗白鳥、
芥川龍之介、中勘助など
あの時代の本を、古本屋で買って
読んでいたことがあった。
今でも日本語は、
よくわからない使われ方を
するけど、
「まんじ」とか。
辞書に載るような
はっきりした意味の言葉もあれば、
そうでない「なんとなく、空気」で
伝わる言葉もある。
明治の頃の日本語は、
それがもっと曖昧で
めちゃめちゃだった。
*
たとえば、
しかつめらしいを
「鹿爪らしい」と当て字にしたり、
みっともないの反対語として
「見っともいい」をつくったり、
証明は「證明」だったり、
理解は「理會」とか
もがくも「藻掻く」としたり、
謝るを「謝罪る」
印象を動詞化して「印象する」
なんて書いたり、
訳(わけ)は譯とするところを
森鴎外が「訣」と書いたり。
それを芥川龍之介が
ぼくもそれ使いたいという
手紙を書いたとか。
今は使わない漢字や使われ方が、
かなりオリジナルで開発されていた。
一種のファッションだったのかも
しれないけれど。
*
いま、上記に挙げた単語を
公の場に出そうものなら、
多少なりとも批判がくるだろうし、
世に出る前に、
それは間違いです、こうしてください、
という指示が入るかもしれない。
言葉の決まりが当時よりもしっかりした分、
制約が多くなったとも言える。
同じ夏目漱石であっても、
昭和の初期頃に発行された文庫と、
「坊ちゃん」のように、
小学生向けに新たに書き換えられた
本を読み比べると、どことなく、
空気感が変わる気がする。
昔のやたら画数の多い難しい漢字を
たくさん、しかも当て字だったりする
ページを見ていると、
なんかわからないけど、
味わいがあるように思える。
思えば、当て字もダジャレ的で、
意味が膨らむこともある。
もがくを「藻掻く」と書いていると
おぼれて藻を掻くように暴れている
様が浮かぶようだし。
*
柳瀬尚紀と山田俊雄の対談本
「ことば談義、寝ても覚めても」
(寝ても覚めても、は旧字)
を読むと、
今の言葉の使われ方が薄い。
という。
語源の消失や、旧字の印象を失う、
本来の意味が消えて、
別の用法になった言葉。
など、過去が、ぱーっと
消えていってしまう問題。
言葉が文字として残っている
歴史は1000年以上ある。
その積み重ねで今の
言葉があるのだから、
ばさっと昔を切り落として
言葉を軽々と使うのは、
いかがなものか、
というような老人的な本であった。
なるほど、それもそうだ、と
おもう反面、
半分、そうでもない気もしている。
2018/05/14