博学になるために
西岡事務局長の週刊「挿絵展」より
ふたたび、こんなところが気になった。
1889年に刊行された「あおいろの童話集」
(アンドル・ラング)に挿絵を描いた
ヘンリー・J・フォードの絵について…
「沢山の写真や文献の資料を
参考にしているのだろうし、
フォードという人が博学だったことは
間違いなく…(中略)」(引用)
描けることが博学である、というのは
実になるほどそうであると思った。
*
極端な例だけど
「忍者ハットリくん」を描いてと
言われたとき、どんなにデッサンが
上手であっても
そのキャラクターを知らなければ
描きようもない。
自転車を描いてごらんと言われても、
自転車の構造を知っていないと、
ちゃんと描けたことにはならないし、
バラとチューリップを並べて描いて、
と言われて
どっちがどっちだか区別が付くように
描けるには、それがなんであるかを
やっぱり知っている必要がある。
小説にも同じような事がある。
スタインベックの短編集を読むと、
(地面から八インチのところで
剪定しなければいけない)という
菊の育て方や、
渓谷に特有の朝の色のことや、
干し草を食べるときには
馬の歯の音がする、とか、
体験してみないと気付く由もない
ことがたくさん出てくる…。
ぼくは絵を見ながら、本を読みながら
自分の知らなさを疎ましく思う。
桜の花をみてきれいと思っても、
花がどのような構造して伸びているか
理解していないのだ=描けないのだ、
と思ってガックリくる。
*
「読めば/見れば」それが何だか分かる。
けれど、それを再現しなさいと
言われると、
とたんにイメージできなくなる。
たとえるなら、世界は
「読めるけど書けない漢字」
で満ちている。
読めも書けもできるように
なるには、頭の貯蔵庫に
イメージをたくさん貯めておかなくては。
線路沿いの桜の木の下で
楽しそうに電車の車両番号や
何だか分からない名称を語り合う
鉄ちゃんたちに、ぼくは
羨ましい眼差しを注ぐ。
2013/03/27