worksは6/30に更新しました.

かける言葉がないときは

「花を買う」という詩集を
ちょっと前に読みまして。
この本には作者さんが息子さんを
交通事故でなくされた体験から生み落とされた
言葉たちがつまっています。

少しだけ「はじめに」から引用します。

「息子のいない日々を積み重ねる中で
心に浮かんできた言葉を、
息子がこの世に存在した証のように書き留めて
いきました。」

本編を読むとその通り、心のままの、
ほんとうの言葉という感触があって
生活のどんなささいな場面にも
息子さんのことを忘れずにはいられない、
言葉の奥に火が灯っているような気がしました。

いま、たまたま思い出したんですけど、
村上春樹の「風の歌を聴け」で
文章を書くことについて
こんな一文がありました。

「僕たちが認識しようと努めるものと、
実際に認識するものの間には
深い淵が横たわっている。」

これは、たぶん
書いても、どこか素の自分自身を
置き去りにしていたり、または、
どんなに相手への思いがあっても
それが全然違う形で伝わってしまう、
というよくあることなんじゃないかなあ。

それが「花を買う」には全然ないんです。
きっと嫌になるくらいご自身のきもちと、
実生活との行き来に直面しているんだろうな。

言葉の端々からそういう感触を
受け取れました。

だからこそ、なのかもしれないんですが、
そうやすやすと
言葉をかけられない気がします。

じつは以前、作者さんのご家族の「すがお絵」を
描かせてもらいまして、
やりとりさせて頂いたのですが
かける言葉が見つからないなと。

たとえば「はやく元気になって」とか、
「このつらさはいつか乗り越えられます」とか、
「それ、わかります」とか
その他いろいろなアドバイスとか…

自身の中にある素の自分に
真摯に向き合っている人へは
ちょうど淵の対岸から届かないボールを
投げるようなものかもしれない、と
思ったりするんですよね。

ぼく自身も、「大丈夫!」
「今日もうまくいく!」「元気に!」
「がんばろう!」とか言われると、
あれ、自分って
大丈夫じゃなかったのか、
昨日はうまくいってなかったのか、
元気じゃないように見えていたのか、
頑張っていなかったのか、
とついつい思ってしまうんですよね。

相手にはきっとそんなつもりは
微塵もないだろうことは
わかってはいるけれど。

対岸からの言葉って
そういうところがあるんだよなあ、
と思います。

ぼく自身もSNSのコメントで
きっと届かないてきとうな言葉を
どれだけかけてきたか、と思って
むむ~、と思うけれど。

話をもどして、「花を買う」を読んで
ちょっとびっくりしたのが、
立ち直ることを求めていないように
思えること、なんです。

元気になったら
もう「いない」んじゃないか、と。
くるしみの気持ちを胸に温めているあいだは
まだ「いる」ということ。

そうなのか、と思うことはできても、
どんな気持ちなのか想像もつかない。

僕の好きなエッセイを書く
詩人の荒川洋治さんの「夜のある町で」の
なかに「それからの顔」という話があって
それを思い出したので、ちょっとだけ
引用しておわりにしよう。

「電車のなかで、二人が語らっている。
そのうち一人が、どこかの駅に降りていく。
残された人の表情を見ると、
みじかい間ではあれ、人が人とふれあった
痕跡が、その顔に残っている。
それは消えていくものであるが、
すぐに消えるわけではない。
ろうそくの焔のようにしばらくの間
目もと、口もとをうろついている。
別れた人と、まだ話をしている。
そんな表情の人もいる。」

人はいつでも、ちょっと前のそれからを
生きています。
ちょっと前の気持ちがいまもなお
ここで揺れている。

言葉をかけるより前に、
その人のなかの消えずに残っている焔を
見つめることからはじめる。

そういう対話をぼくはどれだけ
しているのかなと考えている最近です。

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