かける言葉がないときは
「花を買う」という詩集を
ちょっと前に読みまして。
この本には作者さんが息子さんを
交通事故でなくされた体験から生み落とされた
言葉たちがつまっています。
少しだけ「はじめに」から引用します。
「息子のいない日々を積み重ねる中で
心に浮かんできた言葉を、
息子がこの世に存在した証のように書き留めて
いきました。」
本編を読むとその通り、心のままの、
ほんとうの言葉という感触があって
生活のどんなささいな場面にも
息子さんのことを忘れずにはいられない、
言葉の奥に火が灯っているような気がしました。
*
いま、たまたま思い出したんですけど、
村上春樹の「風の歌を聴け」で
文章を書くことについて
こんな一文がありました。
「僕たちが認識しようと努めるものと、
実際に認識するものの間には
深い淵が横たわっている。」
これは、たぶん
書いても、どこか素の自分自身を
置き去りにしていたり、または、
どんなに相手への思いがあっても
それが全然違う形で伝わってしまう、
というよくあることなんじゃないかなあ。
それが「花を買う」には全然ないんです。
きっと嫌になるくらいご自身のきもちと、
実生活との行き来に直面しているんだろうな。
言葉の端々からそういう感触を
受け取れました。
*
だからこそ、なのかもしれないんですが、
そうやすやすと
言葉をかけられない気がします。
じつは以前、作者さんのご家族の「すがお絵」を
描かせてもらいまして、
やりとりさせて頂いたのですが
かける言葉が見つからないなと。
たとえば「はやく元気になって」とか、
「このつらさはいつか乗り越えられます」とか、
「それ、わかります」とか
その他いろいろなアドバイスとか…
自身の中にある素の自分に
真摯に向き合っている人へは
ちょうど淵の対岸から届かないボールを
投げるようなものかもしれない、と
思ったりするんですよね。
*
ぼく自身も、「大丈夫!」
「今日もうまくいく!」「元気に!」
「がんばろう!」とか言われると、
あれ、自分って
大丈夫じゃなかったのか、
昨日はうまくいってなかったのか、
元気じゃないように見えていたのか、
頑張っていなかったのか、
とついつい思ってしまうんですよね。
相手にはきっとそんなつもりは
微塵もないだろうことは
わかってはいるけれど。
対岸からの言葉って
そういうところがあるんだよなあ、
と思います。
ぼく自身もSNSのコメントで
きっと届かないてきとうな言葉を
どれだけかけてきたか、と思って
むむ~、と思うけれど。
*
話をもどして、「花を買う」を読んで
ちょっとびっくりしたのが、
立ち直ることを求めていないように
思えること、なんです。
元気になったら
もう「いない」んじゃないか、と。
くるしみの気持ちを胸に温めているあいだは
まだ「いる」ということ。
そうなのか、と思うことはできても、
どんな気持ちなのか想像もつかない。
*
僕の好きなエッセイを書く
詩人の荒川洋治さんの「夜のある町で」の
なかに「それからの顔」という話があって
それを思い出したので、ちょっとだけ
引用しておわりにしよう。
「電車のなかで、二人が語らっている。
そのうち一人が、どこかの駅に降りていく。
残された人の表情を見ると、
みじかい間ではあれ、人が人とふれあった
痕跡が、その顔に残っている。
それは消えていくものであるが、
すぐに消えるわけではない。
ろうそくの焔のようにしばらくの間
目もと、口もとをうろついている。
別れた人と、まだ話をしている。
そんな表情の人もいる。」
人はいつでも、ちょっと前のそれからを
生きています。
ちょっと前の気持ちがいまもなお
ここで揺れている。
言葉をかけるより前に、
その人のなかの消えずに残っている焔を
見つめることからはじめる。
そういう対話をぼくはどれだけ
しているのかなと考えている最近です。
2022/07/07