良い学びとは遊びに対する肯定感
これはけっこう秘密なんだけど、
昔から歌うのが好き。
カラオケは好きじゃないけど、
家でひとりで音楽を聴きながら、
歌うのは、よくします。
引っ越す前の家は、
隣の人の生活音が筒抜けな
アパートだったので、
ずっと我慢してましたが、
今の家は、大丈夫そうなので、
電話で話すくらいの声のトーンで
歌っています。
*
これ、べつに歌がうまくなりたいとか、
いつか誰かに聞かせるためにとか、
これは健康法の一つ、とかじゃなくて、
なんの目的もなく、ただただ、
そうしているのが、心地いいから。
*
何年か前の話なんだけど、
久しぶりにあった友人と
銭湯にいったときに、
「あれ、おまえ筋トレしてんの?」
と。
全然していないけど、なんで?
「…え、じゃなんで
腹筋われてんの?
おれ時々筋トレしているけど、
割れないんだよ」
それはビールっ腹だからでしょ。
と言いつつ、覚えのない腹筋に
あれ、なんでだろう?
と考えていたら、
…あ、歌っているからだと。
ぼくは鼻歌レベルじゃなくて、
ちょっと大きな声で人と話すくらいの
トーンで延々と歌うので、
腹筋にけっこう負荷がかかって
そこそこな有酸素運動を
しているのと同じだったらしい。
*
目的を持って向上させることが
「学び」であって、
目的をもたずただ楽しむことが
「遊び」であるなら、
歌うのは、ぼくにとっての遊び。
でも、それが結果として
腹筋につながったとき、
はじめて「あの遊びは学び(向上)に
つながっていたのか」
という自覚に。
その自覚こそが「遊びの中の学び」
になるんじゃないかな。
と思いました。
要するに遊びに対する肯定感です。
*
思い出したので、ついでに
書くけれど、
いがらしみきおのマンガ「ぼのぼの」でも
似たような話があったなあ。
シマリスくんとぼのぼのが、
「大人も遊んだりするのかなあ」と
シマリスくんのお父さんを
こっそり観察している話。
シマリスくんのお父さんは、
木の枝を地面にさして、
そこにしがみついて、
左右にびよんびよんと
いかにも面白そうな遊びを
しているんですが、
「あれは、そういう健康法なのでぃす」
とシマリスくんがいう。
次に、お父さんは
枝に紐をたらして、
自分の体に巻き付け、
バンジージャンプみたいに
ゆらゆらして遊んでいる。
「ちがいます。あれは、
そういう健康法なのでぃす」
とシマリスくん。
でもすごく楽しそうな
お父さん。
*
大人になると、
「目的をもたない」ということが、
難しくなってくるんじゃないかなあ。
限られた一日の時間の中で、
どうすごそうかと考えると、
目的もなくなにかを楽しむ
ということが、ちょっとした罪悪感に
すらなるかもしれない。
けれど、
「ただ楽しいだけ」のことにも、
どこかに「学び」や「向上」が
隠されている。
それを実感することが重要な点。
そう信じれるからこそ、
純粋に楽しいから、ということへ
飛びこむこともできるんじゃないかな。
無条件に楽しいと思うことをする。
これ、必要です。
2021/05/16