自由な舌
信号待ちをしていると、
横にいた小さな女の子が突然
しゃべりはじめた。
なんだか分からない、
もはや日本語ではない声で
「をうをう、けしょけしょ、
れりゅれりゅ…」
その他、表記不能な声を
まくしたてている。
隣のお母さんは、
ちょっとこんなところで、
という困った顔。
女の子はおかまいなしで
半分踊るように、
狂ったように
しゃべりつづける。
そのときに、
多和田葉子の「エクソフォニー」に
書いてあったことを思い出した。
赤ちゃんが母国語の習得をする
ということは、
あらゆる語を話す「潜在能力」を
一つだけ残して、
すべて破壊するということ。
*
うーん、あの女の子は、
まだ他の潜在能力が
多く残っていたのかもしれないな。
ふだんの日本語会話の中で
規制されてきた「舌のうごき」を、
一気に解放したのだ、と思う。
「一つの意味を形成できないままに
自由を求めて踊りまくる舌、
そんな舌へのあこがれが
わたしの中にも潜んでいる。」
と多和田葉子は書いている。
読んでいて、
ぼくも同じような気持ちになった。
でも、これだけだと
誰にも理解してもらえないことに
なってしまう。
意味の規制から解放し
自由を求めながらも、
どの部分で人の感覚理解と
繋がることができようか。
このあたりが非常に難関なのだと
思います。
2013/02/15