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地球に住んでいるんだった

科学が発達したなあ、という実感って
じつはそんなに無いんじゃないと思う。
 
実際、ケータイのGPS機能は恐ろしいくらい
正確だし、iPhoneの「友達を探す」機能を
使えば「あなたそんなところにいたのね」と
すぐに分かる。
大分恩恵にあずかっているのだけれど、
でもそれって、どうやっているんだろう。
 
wifiにつなぐ、ということは分かっても、
どういう仕組みなのか、ぜんぜん知らない。
ぴんと来ない。
 
もし、電波とかwifiが目に見えたり、
肌の温度で感じられたりなんかしたら
直感的にも分かると思うんだけど。
 

 
50年くらい前の物理学者、
リチャード・ファインマンは
「この非科学的時代」という講演で
こんなことを言っている。
 
非科学的と言っても、
工学技術の応用という意味にとれば、
そしてその急速な発展のスピードを見れば
現在は絶対に科学的時代と言える。
 
けれど、人間の精神的姿勢や理解などに
大きな役割りを果たしていないという点では
現代を科学的時代だとは思いません。
 

 
これは今でもそうだなと思えるんだけど
工学的な技術としては、確かに
想像もできないくらい発達してると思える。
 
だからといって、
たとえば、科学が深まるに連れて、
地球や自然の偉大さが知れる、みたいな
精神的な影響ってほとんどない。
 
キリスト教とか仏教みたいには
科学は人の内面にあんまり影響して
いないんじゃないかなあ。
スマホを使って便利とは思っても、
この世界の仕組みは実にすばらしい、
とは思わないでしょう。
 

 
150年くらい前の作家の
シュティフターという人も、
「石さまざま」の序でこんなようなことを
書いている。
 
磁石の針で一定の時間ごと観察して、
北を向く精度を毎日ひたすら調べていれば、
あるとき磁気嵐がおそい
地表全体が一種の磁気の戦慄を感じている
ということが分かるのだという。
 
つまり、人の五感では感じられないことも
科学的な観察の積み重ねによって
精神的な眼を持つことができるのだ、
ということ。
 
この人は科学が人の気持ちや精神に
もたらす影響を
積極的に受け入れようとしている。
 

 
どんな街にいたって、満員電車に乗っていても
暗い宇宙のなかを美妙な均衡を
保って回っている地球に自分が
いるという事は変わらないでしょう。
 
ひどい地震や津波や火山があったときだけ、
自然の脅威と認識しているのでは
ちょっと遅いのかもしれない。
「そうだ、自分は地球に住んでいるんだった」
という実感が希薄だった。
 
いきなりスケールの大きい話に
なってしまうけど
常にものすごい力でうごめいているだろう
地球について、もうすこし知っていたほうが
いいなとじぶん自身が思う。
 
科学的な事実をたよりに
地球がどんなものかを、想像したり、
考えたりする、ということが
今後意味のあることになるだろうなと
思える。

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