台詞の必然性?
本を読んでいると、
ついうっかりいろんなものを
見逃してしまうことが多い。
物語が進行していく中で、
大小関わらず、転機が訪れることがある。
ごく日常的にスムーズに進んでいれば
そんなこと考えもしなかったことが
物語としてうまいこと転調する。
でも、どうしてそんなことが
起こったのか、本を読んでいる時は
考えもしない。
たとえば「飛ぶ教室」のことをいうと、
子ども達が奪われた校旗とノートを
取り戻すために、
相手の陣地に乱闘をしかけにいく。
さあいくぞってときに、後ろから
禁煙さんという賢者(味方の大人)が
助言を与える。
大勢で戦っては、
双方の学校から罰が下されることになる
事を大きくする必要はないじゃない、
一対一でやりなさい。
という建設的なアドバイス。
たぶん、これは後で重要なシーンとなる
クリスマスパーティを
学校の罰則によって中止されないための
ケストナー(著者)のはからいだと思う。
(まだ全部読んでないけど。)
*
このように
物語の出来事は、前後の因果関係が
ちゃんと連結するように、
あえてそう書かれている。
こういう意識を、読んでいる時に
ぽかーんと抜かしてしまう。
台詞ひとつとっても、
なんでこのタイミングでこの人は
こんなことを言ったのだろう。
自分だったら言うだろうか。
そう書くだろうか。
などと本来なら気にする点は
いっぱいあるのに、
そうしないで、身をゆだねてしまう。
そういうのもいいけれど、
ぼくが本を読むときは、
大体、本が先生であって欲しいと望む。
とすれば、もっと素朴な疑問をもって
読みたいものだと思う。
でなきゃいつまで経っても、
物語の秘密を解き明かせないまま、
知らないあいだに面白さだけを
受け身してしまう。
2013/07/16