反対する人がいないなら
一時期(というか今もなお?)
詩の世界では朗読が流行ったのだそうな。
本で読んだだけだから、
それ以上の実体はしらない。
朗読してこそ、声で身体で、
ことだまの本質を得るという
着想だったと思う。たぶん。
でもそこで、僕がおもしろいし、
すごいと思ったのは、それに反対した人。
詩人の荒川洋治という人。
彼が朗読を強烈に反対した理由が
「他に反対する人がいないから」、
というんだから面白い。
反対する人がいないから、
じゃあぼくが反対しようと
名乗り出たのが
荒川洋治だった、という。
*
ぼくの身の回りでは、
紙モノを扱う方々が多いので、
てっきり紙モノって面白いんだ、
と勘違いしてしまう。
紙だからこそ、とか、
紙の加工方法とか、
そこが面白いとつっこんでいくと、
どこかで見誤る。
紙のおもしろさはコンテンツに
従属するもので、紙モノ自体の
構造やとらえ方の面白さは、
実際「へえ」くらいのものにすぎない。
とぼくもあえて反紙モノの立場に
立ってみる。
自分の意志表明や活動する中で、
なかなか自分を否定できるタイミングって
案外ないんじゃないか。
頭の中の構築のされ方として、
いかに自分の立場が正当でいられるか、
についつい行動が結びつきがち。
これを放置しておくと、
行き過ぎてしまう。
たとえば、手作りの良さが良いから
といって、この世の全てが
オーガニックや手作りになったとたん、
良質なものの数が足りないあまり、
手に入らない多勢のために粗悪品が
多くなると同時に、必然的に「手作り」
という概念も消えるはず。
それから、職人などの作り手が
奴隷化されるかして、掃き捨てられ
いずれ工業製品や大量生産が、今とは逆に
神的な存在になってくるだろう。
*
他の例もとってみる。
スマートフォンの流通によって、
書くことが減る。
ナビアプリによって今じぶんが
どこにいるかを考える必要もなくなる。
など、こちらから能動的に世界に
働きかける能力を失っている、
と嘆く人がいる。
もっと極端に話を捉えるために、
初めて靴が発明されたときを
想像してみる。
靴にはどんなに長く足場の悪いとこを
歩いても疲れない、という大いなる
利点がある。
でも、ある人が嘆く。
靴の発明によって、それまであった
「足の裏の繊細な感覚」を失うことに
なるのだ。
でも、今や、素足の感覚を
半分は失ったとして、
いったい僕らはどれほど豊かさを
失ったと感じているだろうか。
そのことよりも、
靴を履いたことによって、
できることが増えたことに、
どちらかと言えば人間としての本質が
あるのでは。
などなど…。
とにかく今、どれだけ自分が
ただしいと思っている事を信念として
持っていても、
結局それは、バランスの中で
たまたまそういう方向性が
価値を持っているだけで、
それが本質だと決めつけるのは
行き過ぎた誤りである、と
ぼくは思うようにしている。
2014/11/20