なんでもないことの可能性
ノーベル賞というのが、どことなく遠い
存在のような気がする。
たとえば、ノーベル文学賞とか、
自分の人生に関わるなどとはとうてい思えない。
日本人作家が受賞すれば、話は別だけど、
海外のノーベル文学賞作家なんて、
知る由もないし、興味もわかないだろう。
それは、自分には届かないものとして
もっと知的で、高度で、非生活圏での
出来事のように思えるから。
しかし、そんなことはない。
ごく日常のことを語り、可愛らしく、
日頃隠され、埋もれているわたしたちの
前向きな可能性に気付かせてくれる、
そんな詩がある。
ポーランドのノーベル文学賞作家。
詩人のヴィスワヴァ・シンボルスカ。
詩集「橋の上の人たち」工藤幸雄訳には
彼女の顔写真が掲載されている。
物語に出てきそうな、聡明で優しい顔をした
おばあちゃん。それだけでも、
もう好きになる。
このおばあちゃんが、
こんなことを書いている。
「可能性」というタイトルの一遍。
*
「映画のほうが好き
猫のほうが好き
ヴァルタ河畔の柏のほうが好き
ディケンズがドストイェフスキイより好き
自分なら人好きでいたい
人類愛に燃えるよりは。
用心に針と糸を持ち歩くほうが好き
色は緑のほうが好き…」
清少納言の枕草子「春はあけぼの〜」に
そっくりで、ひたすら好きなものを
あげていく。
あ、難しくない、と思う。
僕もだ、とか、僕だったら〜とか思う。
*
「例外のほうが好き
外出は早めのほうが好き
…
恋愛で好きなのは何周年と割り切れない
記念日、毎日するお祝い
モラリストなら
どんな約束もしない人がよく
好意なら抜け目なしが隙だらけより好む
大地は普段着の姿が好き
亡国のほうが滅ぼそうとする国より好き
留保するほうを好み
…
訊ねないほうが好き、
この先まだどのくらい、いつなどと。
生きることにはそれなりの理由があると
その可能性なりと気に留めるほうが好き」
僕たちはあらゆる場面で、端的で、
はっきりとした意見をいつも求められる。
自己紹介するときも、何か意見を述べるときも
事務的な書類に記載するときも、
自分というフレームをできるだけ
短い言葉に収斂させることが適当だとする。
考えはいつもシンプルであるべきだと。
けれど、そう考えることで、
取りこぼしているはずのものごとを
「ないようなもの」だと、どこかで
割り切ってしまっているのではないか。
ヴィスワヴァ・シンボルスカは、
それらこぼれてしまった小さな事実、
小さな興味、とるに足らない出来事を
丁寧に拾い集め愛でているように思える。
それで、気がつく。
なんでもないようなことが、
本当は一番自分らしいことだったり
するのかもしれないなあっと。
2014/10/30