記憶されない言葉
メールでも本でも会話でも
文章を読む時って、一字一句を
記憶しているわけではありません。
なんとなく、相手の意図した
意味だけが底にたまった澱のようになって
記憶に残るものです。
おおまかに、
あんなことを言っていた、
こんなストーリーだった、
ということを思い出せても、
一字一句を違いなく再現できるわけでは
ないと思います。
それは、言葉を表層ではなく、
イメージモデルとして
理解しているからです。
「きのう韓国料理屋の韓ちゃんで
トゥブキムチとトッポキと
ソウルマッコリを注文して
大盛あがりだった。」
たとえば上記の文章を受けたとき、
“何人かと一緒に韓国料理屋で
たのしく飲み会をやった”
という「イメージ図」が頭の中で
展開され、記憶される。
「何人かと一緒に」や
「飲み会」ということは文中には
明記されていないけれど、
読み手のイメージ側が
一般的な理解のもとにそのように
想起して読み解いています。
一方、「韓ちゃん」「トゥブキムチ」
「トッポキ」「ソウルマッコリ」などの
細かい情報は必ずしも
記憶されるわけではありません。
おおまかな概要イメージが
読み手の脳裏で描くことができれば、
具体的で細かな単語は、記憶から
はじかれる事が多い。
*
何が言いたいか、といいますと
大体の人は、文章を読んで
言葉をみていない(記憶していない)
ということです。
これは良い悪いではなく、
そう言う性質が人にはあるのです。
文から核となる意味イメージを
展開できれば、それで言葉の役割りが
終わってしまう。
言うなれば、言葉が透明化している。
いろんな形のSNSが普及するごとに、
言葉をたくさん使う時代になって
きていますが、だからといって
「意識的に言葉に触れる」機会も増えてる
という訳でもないのかもしれません。
そういう時に、
言葉の持つ意味側ではない価値感を
確認できたら、と考えています。
こんなことを念頭に起きつつ、いま
新しい作品に取りかかっています。
2013/01/09