脱サイボーグ
ことばあそびってなんだろう…
と漠然と考えています、最近。
…小学生並みに素朴な感想をいうと
回文とかって、なんで
ああ不自然なんだろうとおもう。
普通の会話のようなところじゃ、
きっとうまく通じない。
アクロスティックとか、だじゃれも、
なめらかではなくて、言葉そのものに
とっかかりみたいなものがあると思う。
それで、あ、ことばあそびなんだなあ、
という感じをもつんだけど。
逆を言えば、ことばあそびが
なめらかであってしまっては、
どこにことばあそびがあるのか、
もしかしたら、気がつけない。
ことばあそびが不自然なのは、言葉の
(モノとしての)へんてこさに
着目させようとしてるためで、
コミュニケーションツールとしての
用途とは違った視点なんだなと思う。
ところで、
ことばあそびを成立させるための
絶対条件というものがある。
それは言葉や文章をこまぎれに
したものを再構成する上で、
(つまりことばあそびを作る上で)
なにかしらの意味として、
「通っている」こと。
*
ここにちょっとした
矛盾のようなものがある気がする。
意味ではなく「モノ」としての言葉に
着目しながら、意味に執着しようとする。
ことばあそびが、
つぎはぎのサイボーグみたいに
なっている所以が、
ここにあると考えられる。
*
でもそれって中途半端じゃないか。
ぼくは意味から意味への転換に
ことばあそびの醍醐味があると思う。
言い替えると、変化する過程が面白い。
これは文章(言葉)を
どのように分かるのか、
という仕組みにポイントがある。
くわしくは次回。
…ことばあそびを、(物語においての)
感情表現や、コミュニケーションする
ひとつの作法のようなものとして
考えたい。
「生命感がわきおこるような、
有機的な結合を」と考えています。
2014/06/26