感覚からの説得力
説得力を持つことや、
通用する、ということは、
いったいどういう事なのだろう。
表現手段が「言葉」であり
そのうえ論理的なものでないとしたら、
どこに、通用するための仕組みが
あるんでしょうか。
じぶんで書いた575を、
例として取り上げてみます。
ほっぺたも牛乳瓶も雪景色
これを「意味側」から捉えようとすると、
不可解なものとしか思えない。
けれど僕自身、この文字の連なりが
なんとなく気持ちよく見えている。
言葉を論理として見てしまう
先入観を解き放つことができれば、
一般的な立場からみても、十分に
通用する表現だと思っています。
それはなぜか。
*
一つの単語からは、幾つかの
連想が浮かんでくる。
牛乳=白い、甘い
雪景色=白い、冷たい、
ほっぺた=ほっぺたがとろける
(という慣用表現)=おいしい
大雑把に言うとこんな具合。
それらには共通項があり、
また連想の限定がある。
牛乳=白くて冷たい=雪景色
単に「牛乳」というだけでは、
「つめたさ」は感じられない。
「白い」という共通項で雪景色を
となりに並べることで、同時に
「つめたい」という凛とした属性を
全体にまとうことができる。
ほっぺた=おいしい=甘い=牛乳
では、「ほっぺた」が「牛乳」に対し
形容的な役割りを持つことになる。
また「雪景色」と「ほっぺた」によって、
寒さで紅潮した頬を連想することもあり、
熟した果物のような赤さ=甘さ、
にも連結する。
それぞれの組み合わせによる連想が
パズルのように共通項によって
必然的なパターンとして認識される。
単語のスキーマ
(単語に対する一般的なイメージ)が
化学反応のように様々な形に変化し、
感覚的に拡張していく。
意味として、ではなく、
感覚として説得力をもつこと、
575を書きながら、
最近ではこんなことを
意識し始めています。
2012/12/29