巨匠のおしゃべりその2
川端康成というと、
国語の教科書に載っている
「雪国」で知って、それで
「掌の小説」を読んだ記憶がある。
ほとんど歴史上の人物という
イメージで、写真でしか顔を
みたことがない。
それが、びっくり、
伊藤整、三島由紀夫との鼎談の様子が、
映像で残っていて、
YouTubeに上がっている。
ここでも、感銘を受けたので、
紹介してみよう。
*
三島
「ノーベル賞は華やかだけど、
かつて、ここのお宅(鎌倉の長谷)に
伺いますと、これから仕事しますっていって
書斎においでになる。
その後ろ姿を拝見すると、
苦しんでいる様子が思いうかんで
なんともいえない気持ちになる。
孤独な苦しい深夜の机の上の仕事が、
国家的な栄誉へと繋ぐもの。
これが不思議な働きだと
思うんですよ。」
川端
「しかし、苦しむっていうのは、
怠けた結果でね。
だけどまあ、怠けているから、
今まで生きてたんでしょうね。
そうすると、ノーベル賞も、
怠けた結果だということに。」
三島
「力まないというのは、難しいので。
剣道の極意ですよ。」
伊藤
「リラックスという言葉とは違うんだけれど、
(川端の作品には)無為の行間
というのがあって、
それを前提にして結晶が出てくる。
怠けてこられたというのは、
充実するための必要な行為
であったということじゃないかと。」
*
「山の音」では、海外の人から見ると、
「連歌」と評されるほど、
意味のつながりに距離感が
感じられるらしい。
行間が無為なジャンプをするらしい。
力まないが故の飛躍。
力をこめて、伝えるぞ、と思わない。
気になるので、読んでみよう。
*
「自分は怠け者」と言うのって、
ノーベル賞をとったくらいの人であれば、
「怠けもの」が単なる「怠けもの」
として聞こえなくなってくる。
それは意味のある「怠け」だと、
肯定的に受け取られる。
だけど、ぼくのような人が
いうとリアル怠けものに
なってしまう…
*
でも…
考える時や試作するとき、
上手くいかないと、
今日の出来高はほとんどないや、
みたいな日がある。力んでいる。
働いているようなつもりで、
働いていないという例。
そんなときは、散歩に出ると
いい具合に力を抜けて、
「あ、これは」というアイディアが
浮かぶ。
これは、怠けているようで、
結果的に働いている、という例。
ぼくの場合は、
後者の場合で進展することが多い。
なので、他の人からすると、
やっぱり自分も怠けて
いるんだろうなあ。
そんなときは、川端康成の言葉を
おまもりのように思い出そう。
2019/07/13