自由な路地裏
今夜から京都に行ってきます。
主な目的は、展示場所の下見。
いくつか目的地を定めて
宣伝をしに行こうとも企てています。
きっと昼間はあっちこっち移動することに
なりそうなのですが、
一番楽しみにしている時間は、朝と夜。
深夜のカフェと、早朝の徘徊。
知らない街にも
こんな草が生えているんだなあとか
路地裏の門に牛乳瓶がおいてあるぞとか
ここにどんな人が住んでんのかとか
いちいち感心しながら歩きたい。
地元から離れて暮らしたことがない
ぼくとしては、
初めての場所の「日常」というものが
非常にミステリアスに思えてくる。
しみじみしたり、じーん、としたり
鼻息が荒くなったり(危ない)する。
旅行に行った時にはいつもやってしまう。
これを冒険と呼ぶにはあまりにも
地味すぎるし、
しかもどこか怪しげなので、
やはり「徘徊」がふさわしい。
*
深夜のカフェも同じこと。
自分が暮らしていないところでも
ちゃんと、同じような日常がそこにある。
けれど、ぼくがいつも見ている角度とは
きっと微妙に違う様子で見えるだろう。
匂いとか、声とか、まわりに山があるとか
そういうささいな変化が気もちを高揚させる。
たぶん、そういうフェチなんだと思う。
何ていうフェチなんだろう。
徘徊フェチ?…いや、ちょっと違うか。
なんだか犯罪めいてしまう。
なんていうか、
世界には色んな場所があるんだけど、
それぞれは切り離された状態で
同時に進行している。
でも、ぼくはいまいる、
この場所のことしか自由に選べない。
という思いがある。
ネットがあるしグローバルな時代だけど、
それはまやかしだし錯覚なんだよ、と。
そこには、ほんとうに自分の自由な
選択権があるか。
例えばグーグルマップで、
京都の路地裏の通りが見れたとしても、
そこにいる人に話しかけるとか、
塀の裏側はどのようになっているか、とか、
もっとその場所で自分がなにができるかの
選択権を得たような気がしたい。
これが嬉しさなんだろう。
2012/06/13