worksは8/24に更新しました.

似ているという価値

この時期にテレビを見ていると
節分特集に出くわすことがある。
今年も見たし、去年も見た。
 
ぼくたち視聴者は、なにかにつけて
「へえ、なるほど」と思うことが好きなので、
テレビもそれに合わせて、
こんなふうに解説をしてくれる。
 
節分といえば豆まき。
なんで豆をまくのかっていうと、
「まめ」は「魔を滅する」のまめ。
だから、これで厄払いや、
嫌な気分を断つことができる
おまじないになる。という。
 
え、だじゃれじゃんと思う。
しかも若干無理がある。
もし「マメッスル」という筋力増強剤
みたいな名前だったらまだわかるけど。
 
節分は現代まで続く根強い伝統だし、
相当な信ぴょう性があってこそ
なのだと思うけど、
そんなだじゃれに、どうしてそれほど
真剣に思いをこめられるの、
と素朴な疑問が頭をもたげる。
 
思ってみれば、
ひと月前におせちを食べたときにも
こんぶはよろこんぶ、だから縁起物。
とか、
大根を輪のまま煮れば、みんなの和。
とか、
数の子はにしんの卵、
…二親、つまり二人の親の子。
だから子宝にたくさん恵まれる。
とか。
 
…ぜんぶだじゃれじゃん、と思っていた。
これって、要するにことばが似ているという
ことだけなんだ。
 
同音異義語やそれに近い言葉が
縁起物であるというだけ。
でも、ちょっとは気持ちや気分は明るくなる。
だから気持ちの処方箋のような
ものなのかもしれない。
 
それにしても、ことばが似ているというだけで、
「よくなる気がする」というのは、すごい。
 
ことばが似ている、
という意味だけに絞れば
江戸時代に流行った「判じ絵」もそうだ。
歯に逆さの猫がいて、箱根とよむ。
変換ミスが生んだなぞなぞ。
これも同音語といえば同音語だ。
だけど、これにはなんの意味も得られない。
箱根が歯と逆さ猫なのか、と思ってみても
意味が接続しないから。
なぞなぞとしてのみ機能する。
 
人がことばを信じてしまうときって、
二つのものが音が似ていて、なおかつ、
意味としても繋がってくると、
二重に意味が強まり、ほんとにそうなのか、
という気さえしてくる。
 
とんかつやキットカットが
勝つという意味に繋がったり、
蛙の置物をおいて無事帰るに繋がったり。
八の字が末広がりといったり。
 
そんな気がする、と思わせることが、
表現が実用性を伴うポイントなのだと思う。
人が、ないものを想像して、
あたかも、そこにほんとに
あるような気にさせる。
 
ほんとにそこにあるような気がする
と思えるものを作品としてつくれた、
実生活に応用できるものをつくれたらうれしい。

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