worksは8/24に更新しました.

もやもやな考え1

言葉は意識から生まれているので、
言葉には意味がある。
 
たとえば、「あいうえお」から
ランダムに「ね」だけ
切り取ってみても、
いろんな意味付けができる。
 
「ねっこ」の「ね」と言ったり、
「ね」…と言ったら「ねこ」でしょ
って思ったり、
「寝る」の「ね」とか、
声をかける時の「ねー」とか。
 
なにかしら意味付けされてこそ、
言葉は言葉っぽくなる。
 
そうでなかったら、
ただのへんてこな線の塊でしかない。
 

 
意味付けされるとはいえ、
上記したように、言葉は
いろんな意味にとれる場合がある。
 
つまり、とても曖昧。
 
「言葉の正しく使う作法」があるなら、
文字をうまく組み合わせて
こちらの言わんとする内容に
意味を限定していくことに
なるんだろうか…。
 
これが、
相手に伝えるということに
なるんだけど、
意味を、だれがみても「同じ」
にするという性質が言葉にはある。
 

 
そうやって、
いったん言葉を覚えてしまうと、
むだな感覚を遮断しても大丈夫になる。
 
別の観点から言い直せば、
「違い」について、どうでもいいと
思ってしまう。
 
例をあげると、
算数の文章問題で、
こんなのがあったとする。
 
「リンゴを5つ買いましたが、
夕方に2つ食べました。
残りはいくつあるでしょうか?」
 
こんなとき、
実際には、やや小さなリンゴがあったり、
いい匂いのがあったり、
くすんでるのがあったり、
いびつなのがあったりする。
 
でもそういう細かい違いは
いまは関係ない。
リンゴは全部同じリンゴなの。
と考えた方が都合がいい。
 

 
でも、スーパーで値上げされた
「ねぎ」を買う時は、
「全部同じねぎ」でなくなる。
 
あのねぎより、こっちのねぎの
方が豊満な感じがするわね、
なんておもう。
 
こういうとき、言葉よりも
五感から与えられる感覚の方が
優先して感じられる。
 
「同じ」ではなく、
「違い」を見分けるのは
感覚の方。
 

 
言葉で「同じ」というイメージを
定着させるのは、
人にとって都合のいいことが多い。
 
かといって、「違い」を見分ける感覚を
おざなりにしても悪いような気になる。
 

 
こんな顔してあいうえお」という
絵本を製作中なのだけど、
これは、ともすると、
記号的な表現になる。
 
具体的にいうと、
“「あ」は、うれしいときの「あ!」”
という表現があったら、
ぼくのする「あ」でも、
あなたのする「あ」でも
同じ意味です、という。
 
そんなら、突き詰めちゃうと、
ピクトグラムでいいじゃないか、
ということになる。
 
けれど、それじゃ
やっぱり、つまらない。
 

 
欲をいえば
記号的なキャラクターよりも、
絵の中の子が本当にそこにいて、
性格を感じられるような
描き方をしたい。
 
うれしい「あ」にも、
いろんな感情の大きさもあるし、
その子の、その状況で
毎度毎度違う。
 
この子の、このタイミグの、
この表情って、
みてると、頬がゆるむ。
みたいな写真、動画が、
インスタみてると、タイムラインに
流れてくる。
 

 
そんなことを意識していると、
絵を描くのが難しくてたまらない。
 
図形的に、というか、
グラフィック的に
うまいこと記号化しつつ、
 
かつ、
性格をもったキャラクターとして
描きたい…。
 
活き活きしている様子、
どんな服を着ていて、
どんな場所にいて、
どういう気持ちで
そうしているのか、
声をかけたら、
どういう反応しそうなのか、
想像しながらかこうと思うと、
これがまたむずいかしい。
 
インスタでためし描きしてます。

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