worksは8/24に更新しました.

「あそび」の必要

あそびの部分というのが、
どうもぼくには必要らしい。
 
車の教習を受けている時に
「ハンドルにはあそびってのがある」
と教わったことがあるけれど、
そういう意味での「あそび」。
 
安全を考慮して、少し動かしても
ハンドルが効かないように、
回しても何も起こらないゾーン
というものがある。
 
あとアクセルも同じで、
ちょいと踏んだだけでは
すぐには効かないようになっている。
 
こういう「余裕な加減」が
安定さを作っているのだなあ、と
ぼんやりと思っていました。
 

 
あと思い付くところで言えば、
ゲームによくあるような、
例えばマリオブラザーズとか。
敵に当たるとダメージを受けるのだけど、
その瞬間はちかちか点滅して、
一時的に無敵状態になる。
 
連続して敵のダメージを受けないように
してくれるサービスみたいなものか。
「たのしめる」ための補助機能。
 
これだって「あそび」。
 
車のはなしに戻すと、
4輪であることも、あそびのひとつだな
と考えている。
 
バイクのように2輪車は、
倒れる、という危険が常にある。
 
体をわざとぐねっとさせたら
すぐに転倒してしまうし、
エンジン切っている時でも、
うまいこと重心をおさえて持たないと
重すぎてコントロールできなくなる。
倒してしまう。
考えるだけで血の気が引く。
 
その点、車は運転しながら肘をついても
体をゆらゆらさせても安定している。
 
こうした、気を抜いても大丈夫
という土台がぼくには必要であるらしい。
 
一つのことが終わって、
すぐさま次の作業に取りかかる、
ということが出来ない。
 
いったんとことん気を抜かないと
やれる気が起こらない。
 
「気を抜きながら」だからこそ
本心からおもしろいものを、
と思えるのだ、
というのが自己防衛的理屈である。
 

 
学生の頃、小学生の塾のスタッフを
していたことがあるのだけど、
九九の暗算をどうしても言えない子がいた。
 
主任の先生はきびしいので、
暗唱する際は必ず背筋を伸ばして、
両手は気をつけにしていなければ
ならない、と言っていた。
その子はなんだか顔が強張っている。
 
そこでぼくは
「気をつけしなくてもいいから」
というと、
その子は普段の暗唱する時のクセで
体をふらふらさせながら、
両手を中空にもやもやさせて
目をとじて暗唱を始めた。
 
すると、なんとすっかりまるまる
言えたではないか。
 
このときに、緊張がすべてではない、
とぼくの中で実証されたのだ。
 
…という怠け精神を肯定するための
言い訳でした。
 

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