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透明化からモノ化へ

普段どんな方法で発信することが多いか、
といえば、文字だろうなと思う。
 
メールだしツイッターだし、
ブログだし、直接人と会話するよりも
文字を打っているほうが時間として
長いなんてこともある。
 
文筆業の誰かが、こんな事を言っていた、
書いたものをすぐ公開できてしまう状況が、
書くことに対する全体的なレベルを
下げている。
 
なかなか活字にならない、
一定の基準を経て活字になる歓び、
その努力という過程がなくなっている、
などといって嘆いている。
 
けれど、それは杞憂にすぎない。
自分のしてきた苦労を人に
押し付けるようなあつかましい考え。
 
上手い下手に関わるかは知らないけど、
今だって、影響力のあるもの、
ないものという「線」はあるはずで
影響力を持つ文ってのが今までとは
違う種類かもしれないけれど、
それなりに理由を持って出てきたもの。
 
傾向の変化に過ぎない。
 
大事なのは、みんなが言葉について、
関心があるらしいということ。
 
言葉ひとつで仲良くなったり、
決裂したり、集まったり、
はたまた勘違いがあったりする。
 

 
人との関係の間に立ちはだかる言葉
っていうのが、なんとなく大事なんだな
という感覚があるのだと思う。
 
そのとき、言葉は透明化している。
ことばを見ているようで、そうでない。
その先にいる人をみているから。
 

 
その故、人と付き合う親しい気持ち、
じぶんの正しいと思う正直な気持ち、
のはずが、
とても雑で卑近な言葉となって
あらわれることが間々ある。
 
人のいないことば、つまり、
言葉を見つめるためのことば。
透明ではないモノとしてのことば。
ぼくはそこに興味がある。
 
気持ちよいものとして、
爽快感、はつらつさ、安心感のあるもの
そういう心地よさをまとっていたい。
 
今のような状況だからこそ、
人のいない言葉、モノとしての側面が
新鮮に感じられるのではないか。
 
言葉のもつ本来的な特徴、
音感や意味のトーンなどによって
生まれる気持ちのよい感触、
言葉に実感と肉感を持つ、という
モノとしてのことばの側面に
これからも焦点をあてていきたい。

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