語感の濃度
「散文」と「俳句」の語感って
違う属性のものだよなあ、と
分かっているつもりではあったけど、
じっさいどのあたりが違うのかを
実感したことはなかった。
けれど、いろは展に出品中の
二歩の新作「伝える票」を制作していて、
その違いは詳らかになった。
「伝える票」は決められた語群から
自分で選びとった単語が、
散文になったり、
575となって複写されるもの。
一言でいえば「変化する複写」。
意味の内容としてよりも、
語感の手触りを味わって欲しい
というつもりで構想しました。
*
制作上の問題として、まずは語選。
本の中から語を抜取る作業をする。
はじめは小説や詩集、絵本から
探していたけれど、どれも「伝える票」の
仕組みにはあてはまらない。
しだいに本を開くのが苦痛になり、
イスに座っているのが嫌になり、
目をあけているのに辟易して
そのまま眠りに落ちていくのでした。
けれど句集を開くと、面白いくらいに
採集できる。
水木しげる風にいえば「フハッ」
という感覚。
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具体的にひとつ例をあげてみる。
小説などの散文にこんな文章が
あったとする。
「昼に蝶が飛んでいる」
それぞれの語が整合性をもち、
意味的な役割りを持つが語感は弱い。
蝶、飛ぶ、昼、というイメージが
あまりに「そのまま」すぎて
語のイメージの拡張にいたらない。
しかしこれを俳句的に変換すると
「蝶の昼」。
これは口語では絶対に使わない表現。
意味が限定されないからだと思う。
しかし、だからこそ
「蝶」という単語が「昼」という印象を
帯びて拡張される。
字面もどこか気持ちいい。
語感の濃度の濃さ、
これが散文と俳句の違いの一つである、
と思う。
2013/02/24