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言葉をモノとしてみる

景色を見て、いいなと思うとき、
面白いものを見て、あっと思うとき
じんわりと感動しているとき…、などの
なにかを感じとった瞬間って
すぐに言葉に置き換えることが
むずかしい。
 
これ、なんかいいんだけど…、
ああ、なんて言ったらいいんだろう、
みたいなことって、
よくあります。
あれはどういうことだろう。
 
冬のさんぽ112
 
たぶん自分たちは
身の周りの景色をいちいち言葉に介して
見ているわけではない、という
証拠なのだと思います。
 
言葉は単なるイメージの
発起剤みたいなもので、
常に世界と溶けあっているわけではない。
ときどき頭の中と、外の世界とを
連絡しあうくらいのもの。
 
いい文章や詩に出会ったときは
言葉同士が不思議な磁場の中で
くっつきあっているんだけど、
そうでないときは、
文字の群は磁力を失ったように
ばらばらになってしまう。
 

 
世界と言葉とは別々にあって、
世界は生きているけど、
言葉はモノであると、ぼくは思ってみる。
 
言葉をばらばらと散らばった
「モノ」だと考えてみると、
面白いことが起きるんです。
 
言葉で、外の世界を写しとろう、
とするやり方ではなくて、
反対に言葉の方から(パズルみたいに)
自由に文字を組み立てて
世界を作ってしまう。
ということができるんです。
 
その顕著な例として
「判じ絵」があります。
 
江戸時代に流行った「なぞなぞ」で、
ある単語を、別の同音語に置き換えて、
無理矢理ひとつの絵に組み上げ、
それをなんと読むか当てるもの。
 
浅草s江戸の地名2
おならが臭い絵のように見えますが、
これで、あさくさ(浅草)と読む、とか。
 
本郷s江戸の地名2
本と鵜が碁をしているので、
ほんごう(本郷)と読む、とか。
 
117068801715822741
目が水になっちまった、と、つまり
みずがめ(水瓶)なんていうのもあったり。
 
言葉のデタラメさを、無理矢理
絵にするとこんな可笑しい世界が
生まれるんです。
 

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