言葉をモノとしてみる
景色を見て、いいなと思うとき、
面白いものを見て、あっと思うとき
じんわりと感動しているとき…、などの
なにかを感じとった瞬間って
すぐに言葉に置き換えることが
むずかしい。
これ、なんかいいんだけど…、
ああ、なんて言ったらいいんだろう、
みたいなことって、
よくあります。
あれはどういうことだろう。
たぶん自分たちは
身の周りの景色をいちいち言葉に介して
見ているわけではない、という
証拠なのだと思います。
言葉は単なるイメージの
発起剤みたいなもので、
常に世界と溶けあっているわけではない。
ときどき頭の中と、外の世界とを
連絡しあうくらいのもの。
いい文章や詩に出会ったときは
言葉同士が不思議な磁場の中で
くっつきあっているんだけど、
そうでないときは、
文字の群は磁力を失ったように
ばらばらになってしまう。
*
世界と言葉とは別々にあって、
世界は生きているけど、
言葉はモノであると、ぼくは思ってみる。
言葉をばらばらと散らばった
「モノ」だと考えてみると、
面白いことが起きるんです。
言葉で、外の世界を写しとろう、
とするやり方ではなくて、
反対に言葉の方から(パズルみたいに)
自由に文字を組み立てて
世界を作ってしまう。
ということができるんです。
その顕著な例として
「判じ絵」があります。
江戸時代に流行った「なぞなぞ」で、
ある単語を、別の同音語に置き換えて、
無理矢理ひとつの絵に組み上げ、
それをなんと読むか当てるもの。
おならが臭い絵のように見えますが、
これで、あさくさ(浅草)と読む、とか。
本と鵜が碁をしているので、
ほんごう(本郷)と読む、とか。
目が水になっちまった、と、つまり
みずがめ(水瓶)なんていうのもあったり。
言葉のデタラメさを、無理矢理
絵にするとこんな可笑しい世界が
生まれるんです。
2013/11/26