言葉はあるようで、「ない」
テレビを見ていても、本を読んでいても、
「やりたいことと、できることはちがう」
ということをたまに見聞きする。
その言葉に出会うたび、本当にそうだと
自分も思う。
*
たとえば、外に出かけるとき、
いろんなものを持っていく。
家以外の場所で作業することもあるし、
用事があったときも、そのついでに
コーヒーでものみながら、やっておきたい
考えておきたいなと思う事案がある。
項目であげていくと、4、5くらい。
それぞれ、やや趣が異なるものなので
参考にしたい本や、調べものとしての資料も
また別になる。
めちゃくちゃに荷物が重い。
しかし、持って行った資料が
全部、活用できるとは限らない。
頭ではできると思っていても、
結局やるのは意識ではない「気分や感覚」。
(こういうことを言うと
叱られそうだけど。。)
やりたいと企てたとしても、
その場になってみて、やりたくなったかどうか、
が問題である。
あるいはひとつのことで集中力が切れてしまい
その他の案件まで息が続かない。
なんていうことがよくある。
とても効率が悪いので、
項目が多いときは、一つにつき10分で
区切るなんてことをやったけど、
それにしたって、
もってきた資料を眺めているうちに
時間が経ってしまって、なにも進まないか、
あるいは、持ってきた資料をまったく見ずに
時間が来てしまうかのどっちか。
*
そこで思う。
「やりたいことと、できることは違う。」
頭だけで思い浮かべる計画なんて
所詮、あさはかなイメージなんだ。
”昔々、ある家に、
おじいさんとおばあさんがいました”
と言われたときに、それは
抽象的なもの。
それがどんな家の作りをしていて
おばあさんがどんな顔つきで、
何色の服を着ていて、
などの具体性をぬきにしても語れる。
だけど、それを絵にするときは、
つまり言葉ではなくしたとき、
本当にそこにいた人、という
つもりにならないとちゃんと描けない。
具体的には
おばあさんはどういう顔をして、とか、
おじいさんは家で寝ているのか、
起きてわらぞうりを作っているのか、
朝飯を食べているのか、とか
とにかく具体的にならざるをえない。
言葉だけで「おじいさんとおばあさんが
家におりました」と語っていた人も、
絵にしようとすると、語るべき情報量が
必然的に増えることに、
その場になって気が付くだろう。
つまり、なにが言いたいかというと、
言葉というのは、あるようで「ない」、
ということ。
*
予定も、アイデアもぜんぶ、頭で考える
計画ごとというのは、ほとんど
名前だけで分かっているようなもの。
絵に描いてみなさいと、
あるいは実際にやってみなさい
と言って、具体的な細部まで絵が描けて、
行動ができる人はいい。
だが、ぼくはそれができない。
「面白そうだ」と頭では思っていたが、
実際にそれを表現として落とし込もうと
したら全然できなかったとか。
この締め切りまでに、自分の全精力を
絞り切れば、間に合うだろうと
思っていたことが、
ささいなところでつまづいたり、
どうしようと悩む箇所が出てきたり
眠眠打破を飲んだのに、超眠くなったり
予定調和しないのである。
*
最近、背中から首筋にかけて、
寝違えたみたいに痛い。
図鑑なみの本を数冊と、ノートパソコンを
リュックに無理やりつめるからだ。
帰ってきて、実際に使った本や道具だけを
あらためてより分けてみると、
ああ、こんなにいらなかった。と愕然。
自分というものがいまだにわからない。
気分が読めない。
電車に乗っているときは、
家についたら、あれとこれをやろう!
とやる気にみなぎるのだけど、
帰ってみると、突然まったく違う本が
読みたくなり…
なんていうことがある。
そんなときは自分の意識とは別個の、
気分という正体不明の
暴れ馬の上に乗って、
途方に暮れている気がする。
2017/11/13