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言葉はあるようで、「ない」

テレビを見ていても、本を読んでいても、
「やりたいことと、できることはちがう」
ということをたまに見聞きする。
 
その言葉に出会うたび、本当にそうだと
自分も思う。
 

 
たとえば、外に出かけるとき、
いろんなものを持っていく。
 
家以外の場所で作業することもあるし、
用事があったときも、そのついでに
コーヒーでものみながら、やっておきたい
考えておきたいなと思う事案がある。
項目であげていくと、4、5くらい。
 
それぞれ、やや趣が異なるものなので
参考にしたい本や、調べものとしての資料も
また別になる。
 
めちゃくちゃに荷物が重い。
しかし、持って行った資料が
全部、活用できるとは限らない。
頭ではできると思っていても、
結局やるのは意識ではない「気分や感覚」。
 
(こういうことを言うと
叱られそうだけど。。)
 
やりたいと企てたとしても、
その場になってみて、やりたくなったかどうか、
が問題である。
 
あるいはひとつのことで集中力が切れてしまい
その他の案件まで息が続かない。
なんていうことがよくある。
 
とても効率が悪いので、
項目が多いときは、一つにつき10分で
区切るなんてことをやったけど、
それにしたって、
もってきた資料を眺めているうちに
時間が経ってしまって、なにも進まないか、
あるいは、持ってきた資料をまったく見ずに
時間が来てしまうかのどっちか。
 

 
そこで思う。
「やりたいことと、できることは違う。」
 
頭だけで思い浮かべる計画なんて
所詮、あさはかなイメージなんだ。
 
”昔々、ある家に、
おじいさんとおばあさんがいました”
 
と言われたときに、それは
抽象的なもの。
 
それがどんな家の作りをしていて
おばあさんがどんな顔つきで、
何色の服を着ていて、
などの具体性をぬきにしても語れる。
 
だけど、それを絵にするときは、
つまり言葉ではなくしたとき、
本当にそこにいた人、という
つもりにならないとちゃんと描けない。
 
具体的には
おばあさんはどういう顔をして、とか、
おじいさんは家で寝ているのか、
起きてわらぞうりを作っているのか、
朝飯を食べているのか、とか
とにかく具体的にならざるをえない。
 
言葉だけで「おじいさんとおばあさんが
家におりました」と語っていた人も、
絵にしようとすると、語るべき情報量が
必然的に増えることに、
その場になって気が付くだろう。
 
つまり、なにが言いたいかというと、
言葉というのは、あるようで「ない」、
ということ。
 

 
予定も、アイデアもぜんぶ、頭で考える
計画ごとというのは、ほとんど
名前だけで分かっているようなもの。
 
絵に描いてみなさいと、
あるいは実際にやってみなさい
と言って、具体的な細部まで絵が描けて、
行動ができる人はいい。
 
だが、ぼくはそれができない。
 
「面白そうだ」と頭では思っていたが、
実際にそれを表現として落とし込もうと
したら全然できなかったとか。
 
この締め切りまでに、自分の全精力を
絞り切れば、間に合うだろうと
思っていたことが、
ささいなところでつまづいたり、
どうしようと悩む箇所が出てきたり
眠眠打破を飲んだのに、超眠くなったり
予定調和しないのである。
 

 
最近、背中から首筋にかけて、
寝違えたみたいに痛い。
 
図鑑なみの本を数冊と、ノートパソコンを
リュックに無理やりつめるからだ。
 
帰ってきて、実際に使った本や道具だけを
あらためてより分けてみると、
ああ、こんなにいらなかった。と愕然。
 
自分というものがいまだにわからない。
気分が読めない。
 
電車に乗っているときは、
家についたら、あれとこれをやろう!
とやる気にみなぎるのだけど、
帰ってみると、突然まったく違う本が
読みたくなり…
なんていうことがある。
 
そんなときは自分の意識とは別個の、
気分という正体不明の
暴れ馬の上に乗って、
途方に暮れている気がする。

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