神社の鏡のひみつ
自転車で10分くらいのところに、
かなり歴史のある神社があります。
起源を調べると1900年くらい前だといわれて
いるんだけど、え?世界遺産かよっていう
レベルで、やや疑いの念を隠せません。
先日本殿に入る機会があったのですが、
神社に突如興味を持ち始めた義母に
「その神社に鏡があるのか見てきてほしい」
という任命をうけて、鏡?と思いながら
本殿に入ると、たしかに
お寺でいうところの仏像が置いてある場所に
大きな丸い鏡が置いてありました。
そういえば、神棚にも丸い鏡
あるよなあ。あれってなんだろう?
義母がいうには、
あれは参拝した人が自分自身を見つめるために
あるんだって。
本来神様がいる場所においてある鏡。
つまり、あなた自身の中に神様がいるんだ、
ということらしいんです。
そんなわけない…よ?
だって、そんな実感ないし。
と思うのですが、角度を変えて考えてみると、
たしかにそうかも、と思える節もあるんです。
*
思えば自分って、すべて自分でコントロール
しているわけじゃないですよね。
わかりやすいところでいうと、内臓。
心臓は勝手に動くし、
髪の毛も勝手に伸びる。
寝ている間の呼吸だってぼくが
自分でしているという意識はなし。
日々の体調や気分だって思わぬタイミングで
変化することがあります。
それは、季節に旬の野菜があるように、
動物の繁殖期や、渡り鳥の移動する周期が
あるように、地球と太陽との位置の移動が
ぼくたちのなかにも影響を与えているらしい。
…と解剖学者の三木成夫さんが
本に書いていたのを思い出しました。
つまり、太陽系と一緒にめぐっている私たち。
もっとも身近な天体とは、自分の体なんだと。
そう聞くと、
自分のなかにもう一人の「自然」が
住んでいるという気がしてきます。
*
そこでもう一人思い出したのが、
吉本ばななさん。
「「違うこと」をしないこと」という
本があるんですけど、
そこで書かれていることこそ、
自分のなかにいる、もう一人の自然にとって
違うことをしない、という内容なんです。
世の中には、いろんな素敵な方が
たくさんいるので、
そういう人をみてうらやましく思ったり、
焦ったり、いろいろ手を出したくなったり、
道をそれがち。
それでもいいんですけど、
もし、心のどこかでちょっとでも
「違うかも」と思うことがあったら、
それはしないこと。
「まるでスポーツの試合のように、
ただ全身で、その場に求められていることを
判断すること。
そうしたら扉は開く。
別に幸運に向かってというわけではなく、
ただ、自分の道に向かって。
とてつもなく大きななにかの流れに乗って。」
その流れっていうのが、
自分のなかにいる「自然」の動き
なんじゃないかな。
そういう感覚に自分は気が付けて
いるんだろうか?と思います。
いまだ、と感じることや、
「違う」と思える感覚に気が付けることって
難しいから。
*
…そこで、神社の鏡、というわけなんだな、
とぼくのなかでつながった気持ちでした。
自分のことを俯瞰して見つめるために
どうしたらいいかなと、
湯船のなかで目をつむったりしながら…。
2022/06/21