真のたそがれ
近所に川があって、
ときどき散歩にいきます。
川沿いが雑木林になっていて、
多分3キロほどにわたって
緑地が続く。
時々、大小の公園と合流したり、
ところどころに橋があって、
そこを人々が、行きかう。
犬の散歩や、こどもたちと一緒に
ふわふわあるいている。
最近は日が暮れるのが遅いので
16時~17時くらいにぼくも
うろつくんだけど、
よくみるのが、たそがれているひと。
映画「めがね」で、
たそがれるのが上手、みたいな表現が
されていて、
浜辺で、ぼーっと、物思いにふける
姿が描かれているけど、
まさに、そういう人が
ぽつぽついる。
*
理由の一つには
ベンチが多いということも
あるのかもしれない。
座って、何をするでもなく
川を眺めるほか、木々のなびく音、
子どもたちの声、かすかな川のせせらぎ
を聴きつつ、しんとした心地に浸るのに
ぴったりなベンチがそこらじゅうにある。
ベンチがなくても、
橋のてすりに寄りかかり
そっと立ち尽くすひともいる。
女性でも、男性でも、
若い人も、お年寄りも、
どんな世代も平等にたそがれている。
*
そもそも、たそがれる、の意味は
日が暮れて、だんだん明るさが
おとろえていくさまのことを
示しているそうです。
語源としては、暗くなってきて、
行きかう人の顔が判別できなくなり、
「誰そ彼」、つまり、あれはだれ?
という言葉が、変形して「たそかれ」に
なったとか。
*
たそがれている人を見ると、
一様にみんな、すごい集中力なのです。
こちらがじっと見ていると、
たいていのひとからは
視線に気が付いたかのような
そぶりを感じるんだけど、
たそがれのひとには、
完全にスルーされる。
いくらこちらがじっと観察しても、
わたしはここにいません、
とでもいうように、
ぼーっとしている。
きっと自分が誰だか
どうでもよくなっている。
自分が「誰である」ということを忘れて、
なにかに感じ入っている。
まさに「誰そ彼」状態だなと
思います。
言い換えると無心の状態
ともいえるかも。
*
多くの自然の生き物たちは、
基本的に無心なんじゃないかな。
昨日の作文で書いた
南木さんが見つめていた川の中の
アユやハセも、
いま自分のしていることに無心になっている。
自分が、誰でも、そう大して変わらない命。
君が僕で、僕が君でも、
本来的には命としてはおなじなんだ。
ということに気が付く時、
真の「たそがれ」といえるのではないかなと
思ったりします。
いま、ここに生きている、
ということに無心になれたとき
ぼくは幸福なことだと思う。
だから、川でたそがれているひとをみると
こちらまで、こころがほぐされる気分に
なるんですよね。
2021/06/04