栓をゆるめて
中学から高校まで陸上部で、
ほとんど毎日走りながら
よくこんなことを思っていました。
「毎日走ってようやく
体力がキープできるのに、
走っていない人たちって
よく平気でいられるよなあ」と。
すこし揶揄をこめて。
…
当時のそのつぶやきが、
いまになって自分自身につきささって
くるのですが…
もう、とにかく運動していなくて。
部屋でじっとしている時間が
長いので、
その蓄積が見えないなにかとなって
どよどよと体にまとわりついてくる感じ。
ときほぐそうとして、
ストレッチや散歩を
取り入れてみているものの、
ぬぐい切れない感覚が残るんですよね。
*
そんなとき
「声出してる?」と
ヨガのトレーナーをしている
家族からいわれて。
あ、声ね!と、気が付きました。
たしかに、しゃべってない。
かつて実家にいたころは
割と音が漏れない家だったので、
よく大声で歌ったり、ひとりごとを
大音量で発していたよなあ、と思い出し。
うれしいときや怒ったときに
狂ったように発散する子どものような、
そういう感覚、忘れていたのかも…
という思いが頭をもたげてきました。
*
いまや隣人に気をつかって
歌ったりせず、
「身内にしか聞かれてはいけない変な声」
とかも、出さないように暮らすことが
普通になっていて。
まるで自分自身に
ぎゅっと
栓をしていたような。
*
全然話が飛ぶのですけど。
最近、「本日の絵 皆川明挿画集」を
眺めているんですが、
絵の描き方が、それこそ「栓をゆるめて」
描いているように感じるんです。
まったくの白紙を前にして、
自由に描いていいよ、と言われたら、
ぼくはまず頭で考えはじめちゃいそう。
いきなり手を動かしてみる
ということが恐ろしくてできない。
似顔絵を描いていてよく感じるのも
そういうところで、
しっかり描けば描くほど、
栓をかたく締めてしまっている
という気がしてくるんですよね。
完全にすっぽんと抜いてしまうと、
それはそれでバランスが崩れるので、
いつもの7パーセントくらい、
抑制の栓をゆるめるイメージで
絵を描いてみよう。
あ、
あと、声もね。
いまはそんな気分。
2022/05/07