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小さい頃のうんち

絵もそうだし、作文を書いていると、
ごくまれに、小学生の記憶が
よみがえってきてしまうことがある。
 
小学校の頃にも、マンガも作文も
書いていた。
 
マンガは、とにかくつたない。
描いている当時の自分でもわかる。
身の回りにあるマンガのように
描くには、どうしたらいいか、
分からない。
 
部屋の様子とか、アングルとか、
人の立体感とか、まったく
脳の回路が及ばない様子で、
イメージが難しかった。
 
でも、描いてみたい。
そんなせめぎあいの、
わくわく半分、戸惑い半分。
 
そんな気分が、今でも思い出される。
決していい思い出ではない。
 
半分はコンプレックスといってもいい。
 

 
その中でも具体的に思い出されるのは、
親が家にワープロを設置した頃のこと。
 
自分で好きなように打った文字が、
フォントになって出てくるということが
当時の自分には画期的だった。
 
やらせてくれと頼んで、
その日の夕飯後、
真っ黒い画面に向かった。
 
キーボードに印字されている
ひらがなを眺めながら押すと、
画面にも白い文字がぽっと現れる。
 
こりゃいい!とほくそ笑んで、
まず打ったのが、
 
「う、ん、ち」
 
脳内にすでに物語が展開されていた。
はらっぱにうんちがあって、
なんというか、草むらや、川や
あの空地の辺りをあるいて、
いろんなものに出会うのだ。
 
思い出せないが、そんな
想いを巡らせていた。
 
その高揚感が続いて
こうタイプさせた。
 
「うんちくんのぼうけん」
 
そのあと三行ほど書いたけれど、
続きがどうもよく分からなくなって、
結局うやむやになった。
 
確かに頭にはイメージがあったのに、
言葉にすると、うんち程度の単語しか
思いつかない。
 
あのもどかしい感じ。
いまもなお、ある。
 

 
それにしても、どうして
うんちってあんなに好きだったんだろう。
 
お笑いコンビの千鳥も
ネタ中のアドリブで、
「あんたは誰や」とふられて
気の利いたことがすぐ思い付かないと
絞り出すように「んーっうんち」
と入れてくる。
 
ことばの響きも、
形も、色も、匂いも、
いらん(不要な)とこも、
出てくる場所も、
ぜんぶおもろい。
 
って言っていた。
 
あー、うんちって、いらないよなあ。
考えれば考えるほど、
面白いほど、いらない。
 
でも、幼児時代には、
「自分から出てきた
このくさいのはなんだ」とか、
それがきっかけで、
まわりが騒ぎ出しもするし、
もう少し成長すると、
漏らした恥ずかしさなんかも
経たりなんかして、
誰もが避けられない
衝撃があるんだろうな。
 
しかも、それが、うんちって
いうんだから、言いやすい。
 
うんちのことを書いたおかげで
なんの意味もない作文が
またひとつ書けたぞ。

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