妖怪は出るべくして出る
いま、妖怪が本当にいるか
と聞かれたら、
そりゃいないよ、と思う。
ところが、
江戸時代くらいには、
本当にいる、と信じられていた。
らしい。
妖怪、というと、
いかにもファンタジー色が
強まってしまいがちだけど、
心霊現象といったらどうだろう?
家鳴りが霊の仕業とか、
お葬式の会場に羽虫が飛んでいると
「あれは、きっとおじいちゃんが
様子を見に来たんだよ」
と言い合ったり、
心霊スポットと言われる場所に
くるとぞっとするとか…
そう思うと、
いまでもなお、グレーゾーンな
ところもあるので
かつて江戸時代の人が
妖怪だと信じていた気持ちも
半分は分かる。
*
杉並区を散歩していると、
東京23区というイメージ通り
ほとんどがコンクリートで固められ
高いマンションと
ビルと大きな幹線道路が…
と思いがちだけど、
大昔からの農村であった面影を
残しているような古い家や
川沿いに雑木林がかなり広い面積に
広がっていたりするのも分かる。
シャープな新しいマンションのとなりに、
木々の茂った暗く、鬱蒼とした古い家屋が
あったりして
そのコントラストがぼくは好きだったりする。
古い方の家の庭には、これでもか
っていうくらいの大きな木が
植わっていたり、
茂みを囲いにしていたり、
地面は土がむき出しだし。湿っぽい。
ああ、こういう家に住んでいたら、
きっと妖怪の存在も
信じやすくなるだろうなあ。
だって、暗がりとか、
なぜそこにぼーぼーの草や木が
生えていたんだっけ?
という理由がイマイチはっきりしない。
理路整然さが行き届いていない。
そういう意識の余白に
妖怪はいるような気がする。
*
京極夏彦の対談集「妖怪大談義」で
養老猛司が「妖怪は、出るべくして出てくる
わけでしょ」
と言っていて、
説明がつかないものに形を与える、
いわば理由づけのために生まれたっていう。
たとえがいまいちだけど、
地震の原因を(わからないから)なまずに
しちゃうとか。
*
話は飛ぶけど、
言葉にも余白があると思う。
ことばって、一応
表面的な意味は伝わるんだけど、
あれは、
こういう意図で言ってたんじゃないか、
いや、こういうとらえ方もできる…
みたいな、
なかなか一つの気持ちとして
とらえきれない部分もある。
そういうよくわからないものを
どうとらえるかが、
自分の(理路整然が行き届かない)
気持ちの問題だったりして。
言った側にとって褒めたつもりが、
受け取る自分にとっては
皮肉に聞こえたり、その逆もしかり、
どう受け取るかは、
自分の心境に沿って
「出るべくして出た」もの、
というふうに
なぞらえることもできるなと。
*
ことばにも、妖怪のような
存在がのさばっていると思う。
(ところで二歩で「ことばけ」という
コンテンツを考えています。
着想は「判じ絵」だったけど、
もっと気持ちに踏み込むべきだなと
思っていて、
そのことばけは、
なんで生まれたんだろう?
という視点を取り入れたらどうだろう。
「ぼくのうちはへんてこだ」
から始まる、この話自体を一人の男の子の
日記として描く。
それで、「すずめ」を
「鈴目」(すずめのように飛んでいるが
胴体は鈴、目がぱっちりついていることばの妖怪)
としてとらえたのは、
寝坊しちゃうぼくを鈴の音で起こして
欲しかったからとか…
自分のできそうもない理想を
ことばけに落とし込んでいく。
「ことばけ」の存在由来を
気持ちに求めてみたら
「意味をプラスに変えていくことが
できるのが言葉の真髄」
ということを
込められるのかもしれない。)
2020/11/23