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妖怪は出るべくして出る

いま、妖怪が本当にいるか
と聞かれたら、
そりゃいないよ、と思う。

ところが、
江戸時代くらいには、
本当にいる、と信じられていた。
らしい。

妖怪、というと、
いかにもファンタジー色が
強まってしまいがちだけど、
心霊現象といったらどうだろう?

家鳴りが霊の仕業とか、
お葬式の会場に羽虫が飛んでいると
「あれは、きっとおじいちゃんが
様子を見に来たんだよ」
と言い合ったり、
心霊スポットと言われる場所に
くるとぞっとするとか…

そう思うと、
いまでもなお、グレーゾーンな
ところもあるので
かつて江戸時代の人が
妖怪だと信じていた気持ちも
半分は分かる。

杉並区を散歩していると、
東京23区というイメージ通り
ほとんどがコンクリートで固められ
高いマンションと
ビルと大きな幹線道路が…
と思いがちだけど、
大昔からの農村であった面影を
残しているような古い家や
川沿いに雑木林がかなり広い面積に
広がっていたりするのも分かる。

シャープな新しいマンションのとなりに、
木々の茂った暗く、鬱蒼とした古い家屋が
あったりして
そのコントラストがぼくは好きだったりする。

古い方の家の庭には、これでもか
っていうくらいの大きな木が
植わっていたり、
茂みを囲いにしていたり、
地面は土がむき出しだし。湿っぽい。

ああ、こういう家に住んでいたら、
きっと妖怪の存在も
信じやすくなるだろうなあ。

だって、暗がりとか、
なぜそこにぼーぼーの草や木が
生えていたんだっけ?
という理由がイマイチはっきりしない。
理路整然さが行き届いていない。

そういう意識の余白に
妖怪はいるような気がする。

京極夏彦の対談集「妖怪大談義」で
養老猛司が「妖怪は、出るべくして出てくる
わけでしょ」
と言っていて、
説明がつかないものに形を与える、
いわば理由づけのために生まれたっていう。

たとえがいまいちだけど、
地震の原因を(わからないから)なまずに
しちゃうとか。

話は飛ぶけど、

言葉にも余白があると思う。

ことばって、一応
表面的な意味は伝わるんだけど、
あれは、
こういう意図で言ってたんじゃないか、
いや、こういうとらえ方もできる…
みたいな、
なかなか一つの気持ちとして
とらえきれない部分もある。

そういうよくわからないものを
どうとらえるかが、
自分の(理路整然が行き届かない)
気持ちの問題だったりして。

言った側にとって褒めたつもりが、
受け取る自分にとっては
皮肉に聞こえたり、その逆もしかり、
どう受け取るかは、
自分の心境に沿って
「出るべくして出た」もの、
というふうに
なぞらえることもできるなと。

ことばにも、妖怪のような
存在がのさばっていると思う。

(ところで二歩で「ことばけ」という
コンテンツを考えています。

着想は「判じ絵」だったけど、
もっと気持ちに踏み込むべきだなと
思っていて、

そのことばけは、
なんで生まれたんだろう?
という視点を取り入れたらどうだろう。

「ぼくのうちはへんてこだ」
から始まる、この話自体を一人の男の子の
日記として描く。

それで、「すずめ」を
「鈴目」(すずめのように飛んでいるが
胴体は鈴、目がぱっちりついていることばの妖怪)
としてとらえたのは、
寝坊しちゃうぼくを鈴の音で起こして
欲しかったからとか…
自分のできそうもない理想を
ことばけに落とし込んでいく。

「ことばけ」の存在由来を
気持ちに求めてみたら
「意味をプラスに変えていくことが
できるのが言葉の真髄」
ということを
込められるのかもしれない。)

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