夜への指図
小さい頃は、大冒険をよくしたものだ、
という気がする。
学校の裏にある掘建て小屋を
隠れ家にしたり、
じぶんたちなりの遊びを作ったり、
永遠に一緒に自転車をこいで
遠くまで旅をしつづけるだろう、
と思い込んだ友人も3人くらいはいた。
…
というのは、多分気のせい。
どれをとっても、近所で身近で、
ささやかなものに過ぎない。
けれど当時の彼らにしたら、
大仕事だった。
なぜなら、身の回りには
あまりに多くの「知らない事」が
ひそんでいたから。
知らない事に直面するときの
驚きの爆発が、
高揚感を増した理由であると思う。
レイ・ブラッドベリの
「さよなら僕の夏」を読むと
それに似た気持ちが思い出される。
アメリカのグリーンタウンという
峡谷沿いの小さい町が舞台となっていて、
まもなく14歳になろうとするダグラス、
彼の弟のトム、おじいちゃん、
その周辺の人々の中でおこる物語。
自分(子供)たちを縛って未来まで
管理するものは一体なんだ、と
老人たちが表でやっているチェスの駒を
片っ端から奪ったり、
群庁舎の大時計を爆竹で破壊したり、
大人達に対して紛糾する。
それは時間の進行と未来の管理を
とめようする
幼児性(活発な想像力)を解放するための
子供たちの大冒険だった。
*
いまの自分にとっての大冒険とは
なんだろう、と考える。
この本のあとがきには
「驚くことの大切さ」として、
次のような文が書いてあった。
「夜にベッドに入るとき、
私は朝目覚めたときに自分が
なにかではっと驚くように
自分自身に指図することにしている。」
これは小説を発展させるための
大冒険の一つであるという。
…自分の知らないものと出会うために
自分自身にどんな指図をしようか、
と考えると、愉しい気分になる。
2013/01/17