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児童文学と「補集合の本」

児童文学を読むのが好き。
でもどうしてなのか、よくわからない。
思いかえしてみよう。
 
ざっくり物語の傾向をみると、
時空をこえたり幽霊がでたりの超常現象、
美術館に寝泊まりするなど
現実ではありえない状況、
簡単には解決できそうもない
困難な問題がふりそそいでくる。
 
つまり、非日常が心に新鮮さを
もたらしてくれる。
 
それらの問題に対して
いずれの主人公たちも割とまっこうから
前のめりぎみで立ち向かって行く。
 
そうかといって、敵をやっつて、
仲直りをして、何かを手に入れたりして、
解決できるものとはタイプが少し違う。
 
物理的な変化だけではない、
心の問題が重要に扱われている。
なかなか複雑なのだ。
 
読後感は、今までになかった
思考が頭の中にインプットされた
という気がしてくる。
 
その本の文体のようなものが、
体に染み付いたようなかんじ。
それが、何か「ものを見る」時の
とっかかりになってくれることがある。
今まで意識してこなかったことが
すっと胸に入ってくるような。
 
本を読むということが
(仮想の体験を、作者の作った
「ある気持ちの軸」の中で過ごすことが)
心地よい心の矯正器(あんまりいい響きじゃないな)
として機能するのだと思った。
 

 
その実体は大人(作者)が子どもにおくる、
手紙のようなものだと思う。
ただのお説教はあまり効果がなさそうだが、
ある文脈の中でちょうどいいタイミングで
なされるお説教はなかなか効果がある。
 
お説教、というのもまた響きの
よろしくないものだけど、
それを物語として表現しているのが、
児童文学(岩波少年文庫が特に)の
好ましいところ。
 
それまで感じきれていなかったもの、
目で見えているものの
(あるいは見えていないものの)中には、
なにかしらの「メッセージが隠されている」。
ということが分かる。
 
そこに「当然ある」と思っているもの、
つまり当然すぎて「無い」に等しかったもの
(科学的な現象や、人の気持ち、花の構造など)
が俄然意味をもって目の前にあらわれてくる
瞬間があるのだと思う。
 
これが補集合の本の基盤になると思っている。
それを具体的にしてみようと思う。
またれよ次回。

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