児童文学と「補集合の本」
児童文学を読むのが好き。
でもどうしてなのか、よくわからない。
思いかえしてみよう。
ざっくり物語の傾向をみると、
時空をこえたり幽霊がでたりの超常現象、
美術館に寝泊まりするなど
現実ではありえない状況、
簡単には解決できそうもない
困難な問題がふりそそいでくる。
つまり、非日常が心に新鮮さを
もたらしてくれる。
それらの問題に対して
いずれの主人公たちも割とまっこうから
前のめりぎみで立ち向かって行く。
そうかといって、敵をやっつて、
仲直りをして、何かを手に入れたりして、
解決できるものとはタイプが少し違う。
物理的な変化だけではない、
心の問題が重要に扱われている。
なかなか複雑なのだ。
読後感は、今までになかった
思考が頭の中にインプットされた
という気がしてくる。
その本の文体のようなものが、
体に染み付いたようなかんじ。
それが、何か「ものを見る」時の
とっかかりになってくれることがある。
今まで意識してこなかったことが
すっと胸に入ってくるような。
本を読むということが
(仮想の体験を、作者の作った
「ある気持ちの軸」の中で過ごすことが)
心地よい心の矯正器(あんまりいい響きじゃないな)
として機能するのだと思った。
*
その実体は大人(作者)が子どもにおくる、
手紙のようなものだと思う。
ただのお説教はあまり効果がなさそうだが、
ある文脈の中でちょうどいいタイミングで
なされるお説教はなかなか効果がある。
お説教、というのもまた響きの
よろしくないものだけど、
それを物語として表現しているのが、
児童文学(岩波少年文庫が特に)の
好ましいところ。
それまで感じきれていなかったもの、
目で見えているものの
(あるいは見えていないものの)中には、
なにかしらの「メッセージが隠されている」。
ということが分かる。
そこに「当然ある」と思っているもの、
つまり当然すぎて「無い」に等しかったもの
(科学的な現象や、人の気持ち、花の構造など)
が俄然意味をもって目の前にあらわれてくる
瞬間があるのだと思う。
これが補集合の本の基盤になると思っている。
それを具体的にしてみようと思う。
またれよ次回。
2015/06/22