人に心はあるの?
昨日の呪術廻戦の話の続きです。
原作者の芥見下々という人は、
聞くところによると10代のとき
2011年に被災された方のようで、
きっと生死について、心について
自然の大きさについて…
ぼくには想像もできないくらいの
経験をしたんだろうなと。
(当然それだけじゃないだろうけれど)
それをしっかり感じて、
ちゃんと言葉にしてきた人なんだろうな。
*
さて、マンガの内容の話。
いじめられっ子の順平が、復讐について
「呪霊である真人」と話しているシーン。
順平は苦しくて心がつぶれそう。
そんなときに知性をもった妖怪の
真人が
「人に心はあるとおもう?」
と問う。まごつく順平。
真人は続ける。
「魂はある、でもそれは心じゃない。
喜怒哀楽はすべて魂の代謝によるものだ。
それを心と呼ぶにはあまりに機械的だよ」
ここで、
ぼくは、じゃあ魂と心の違いって
なんだっけ?と思うけど、いったんスルー。
人の心が機械的、というのは、
脳科学者の池谷裕二さんが
感情はただの脳の電気信号だと
言っていたのと似ているなと思う。
心って、絶対に剥がれない瞬間接着剤
みたいに、理由も分からず瞬間的に
感情に、はりついて離れない。
そんな苦しいときに、
心や感情は機械的なものだと
捉えると、少しだけ、気持ちは和らぐ。
*
つづけて、
「人は目に見えないものを
特別に考えすぎる。
見えるおれ(呪霊である真人)にとって、
魂は肉体と同じで、なにも特別じゃない
ただそこにあるだけだ。」
「いのちに価値や重さなんてないんだよ。
天地にとっての水のように、
いのちもただめぐるだけ。
それはおれも君もおなじ。無意味な価値。」
ほんとにそうだなとぼくも思う。
価値や重さは、本質的には平等にない。
というか、すべてに同じように
価値が「ある」と言い換えた方がいいか。
「ビギナーズマインド」という
アメリカに日本の禅を広めた
鈴木俊隆の本を読んだときと似た感覚。
ただそこにある、ここにいる、
ということだけで価値があると
認めること。
悟りをひらこうとしている人の
感性に近いなあと。
やっぱり、悩んだり、苦しい気持ちのとき、
肉体から心を解放して、
自分の体が、植物とか川の水とか、
上空の空気とか、野生のリスとか、
と本来は同じ価値なんだって
想像すると、心地は軽くなる。
*
「だからこそなにをしてもいい。
無関心という理想にとらわれては
いけないよ。
生きざまに一貫性なんて必要ない。
お腹が減ったら食べるように、
憎んだらころせばいい。
どう生きようと自由なんだ。」
よし、じゃあ復讐だ!
と物語は続くのだけど、
そこのつながりがさすが悪者の発想って
感じで急に乱暴…笑
*
見えないものを特別に考えすぎている。
というのは、そうだなあ。
感情は脳の電気信号というくらいだから、
大抵、幻覚。錯視と似たようなもの。
本当に特別に考えるべきなのは
見えるし、そこにある、けど
「見ていないもの」の方だと僕は思う。
…それはまた次の作文で。
2021/04/28