中身がなくても伝わる謎について
夕方、高校の前を歩いていると、
部活らしき数人が、
敷地を周回して走っていた。
校門には、すでにゴールした人が
へたへたと座っていて、
横には、デジタルの
大きなタイムラップを図る装置がある。
先にゴールしたと思われる生徒が、
まだ走っている生徒に向かって
「最後だ、もっと、もっと」
とラップ計を指さして叫んでいる。
ぼくは、ふと、
あれえ?とおもう。
なんで「もっと、もっと」だけで
意味は伝わるんだろう。
もしかしたら、
「もっと、ゆっくりでいいよ」
という言うかもしれないし、
「もっと、わらってー」かもしれない。
だけど、そんなわけはない。
ほぼ確実に、「力を出し切れ」
という意味で励ましている。
*
そういう、
仕舞まで言わずと分かる。
みたいなことが日本語には
よくある。
A「さっきの試験問題、解けたー?」
B「やすやすと…ね」
A「あの紙ってどうなった!?」
B「もうびりびりに…」
…こういうのって、
文法の授業で習ったように、
主語はおろか、述語がなくても
意味は伝わってしまう。
主語や述語がなくても
いいのであれば、
残っているのはなんだ?
…正体は「副詞」らしい。
うーん、なるほどね。
ところで、副詞ってなんだっけ?
*
A「この部屋暑いかしら?」
B「ちっとも」
A「ごはんたべた?」
B「まだ」
A「犯人は彼ね」
B「おそらく」
A「うまくいくよね」
B「きっとね」
A「あの映画おもしろかった?」
B「かなり!」
A「調子上がってるみたいだね。」
B「ぐんぐんよ、ぐんぐん。」
A「この料理運んで!」
B「すぐに!」
Bのセリフのようなのが、
副詞と呼ばれる言葉。
*
まぎらわしいのもある。
こういうの。
A「こないだ風邪ひいたんだってね、
元気になった?」
B「もう全然!」
A「…え?どっちの?(笑」
B「全然元気!の方の(笑」
*
終わりまで言わなくても、
相手がなにを言わんとしているか
分かってしまう副詞のことを、
井上ひさしは
「先触れの副詞」と名付けていた。
井上ひさし(著)
文学の蔵(編)
「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」
(新潮文庫)
の120ページに
「先触れの副詞」について
詳細が書かれている。
「わたしたち日本人は「まだ」と聞くと、
下に否定が来ると判断できるんです。
(中略)
葬式の時なんか「さぞ」とか
「どうぞ」とか「どうも」と言えば
それだけでいいわけです。
遺族の方々を本当に慰めるのは
「時間」ですから、いろいろ言っても
しょうがない。」
ありゃ、とおもう。
桂米朝の「京の茶漬け」でも
そんなこと言ってたな。
お葬式で遺族の方にお悔やみを
もうしあげるときの一節。
「……えらいことでしたなぁ、
ちょっとも知りまへんで……、
さっき聞ぃてさよか言ぅて
ビックリして来たよぉなこって……、
何と申し上げたらよろしぃやら、
ほんまにもぉ、
うちの母親やみな『えッ』ちゅうて……、
どぉぞ皆さんによろしゅ……、
失礼(ひつれぇ)いたします、さいなら」
気持ちがこもっているようだけど、
冷静に内容をみると、何も言ってない。
だけど、よーくみると、
「えらいことで」「ちょっとも」
「ほんまに」「どぉぞ」も副詞だ。
…つまり、そういうことだ。
*
時々、言葉は、
その人がそこにいて
なんか言ってるというだけで、
もう十分ということがある。
文字数に比例して
気持ちがこもっているわけじゃ
ないんだなあ。
もう、ほんとに…。
2018/11/29