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たのしいことばあそび-1

大人になって「ことばあそび」という
ものを意識し始めてから、
「ことばあそび」に好印象を抱くことが
少なくなったように思える。
 
自分で何かを作るときには、
ことばあそびは「表現と論理を
行き来できる素材」として、
都合がいいなと思っていたんだけど、
そのうち感性が麻痺してきて、
「ことばあそび」だと思うこと自体が
理屈っぽいというか、なんというか
肩凝りしているように思えてきた。
 
要するに、おもしろくない。
 
なるほど、とか、賢い、というような
左脳的判断をとるよりも、
単純におもしろいか、そうでないか、
という感覚での判断が大事なのに、
と思う。
 

 
ことばあそびのおもしろさは、
理屈っぽさを突詰めることで生まれる
ナンセンス、という側面がある。
 
しかし、それを絵本みたいな物語に
取り入れて構成しようと思うと、
箇所箇所で理屈っぽさがでる。
 
「頭で考えて生まれたもの」
「大人の都合で作られたもの」
というような印象が出てしまう。
 
要するに、実感のうえで
ことばあそびを楽しめる感覚を、
おいてけぼりにしているような
気がしてきた。
 

 
さあ、本題はここから。
実感を取り戻したい試みで、
こどもの頃おもしろかった遊び
(ことばにまつわる遊び)を
思い出した順から列挙。
 
「ぱんつくったことある?」
「あるよ」
「えーこいつ、ぱんつ
食ったことあるんだって!」
 
「てぶくろってさかさから読んでみて」
「ろ、く、ぶ、て」
「ばしばしばし、ばしばしばし…!」
 
「ねえ、ちゃんとふろはいってる?」
「はいってるよお」
「姉ちゃんとふろ入ってるやつ
はっけーん!」
 
「〜(なにかとてつもないことをいう)」
「え、うそ!うそでしょ?」
「うそ。」
 
「黒い白馬にまたがって、
前へ前へとバックする…」
 
こういうことが、
小学生の頃は周囲でたくさん
使われていた。
 
この非合理的なまでの理屈っぽさが、
こどもの頃の我々にとって
大変、愉快痛快なものだった。
いたずらという意味での実用性が
兼ね備わっていることも重要。
 
ことばが、どことなく、
むずがゆいような、変な感じがする。
相手の困った顔が楽しいし、
なにかを壊してしまった快感と
似たようなものがある。
 
妙にずる賢いニクい子なんだ。
子どものことばあそびって。
 
さて次回は、詩の中でおもしろがった
ことばあそびについて。

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