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これを好むにしかず

最近、どういうわけかテレビで養老孟司をみかける。
先月行った高松港の待合室で、ぼーっとしていたら、
テレビで養老孟司が顕微鏡で虫をたのしそうに覗いていた。
 
養老孟司のエッセイでも
「学問研究は「これを好むにしかず」で~」
と言っているし、
ほかのことは無視して、とにかくこれをやっていたい
ということを突き詰めている。
そんな様子を見て、古いベンチに座りながら、
なんでだか、ほっとした。
 
物理学者のファインマンも、
「自分の」仕事を進めるには周りのことは
一切無視することだ、と言っていた。
どうしたって周りの動きが気になってしまう自分には
そういう一言が励みになる。
 
いまやいろんな情報共有の手段があるから、
意識しないと、なかなか無視しきれない。
ほかの人が気になってしまう。
 
自分の好きだと思うことに
張りついて楽しんでいていればいい。
気を外らしてんじゃないよ、と自分を叱りたくなる。
 

 
そんなこともあって、
養老孟司が気になっていたら、
別の番組でこんなことも言っていた。
 
戦前くらいの時代は、子供が親よりも早く
死んでしまっても、おかしくない時代だった。
 
病気に対応する医療も、今よりも少ないので
子供が死ぬということの受け止め方が、
現在と昔とでは違ったのだという。
 
となりの家の子が死んでしまった、とすると、
つぎは我が子がと思っても不思議ではない。
 
「あの子の命もいつ終わるかわからない。
そんな子がめいいっぱい遊んでいるのをみても
にこにこと、遊ばせてやったものだった。」
 
いまでは、子供は大人が守っていさえすれば
死ぬわけがないものだと、信じられている。
だからこそ、怪我も、事故もなく、
不測の事態に巻き込まれないように、規制をはる。
そして、子供はかならず大人になるものだ、
という前提で「教育」される。
 
そうなると、「子供」の時代が、大人になるための
準備期間になってしまう。
からだを動かして、楽しければそれでいい、
というだけでなく、
大人になってから活かされるきっかけにせねば、
という使命感のようなものを大人は勝手に背負う。
 
教育が未来への貯金のようになってしまうと、
なんか違和感があるように思えてくる。
子供は子供の時間があるということを、
念頭においておければいい。
 
周囲を無視した上で、
自分に対してど正直であれば、と思う。
実際には難しくても、せめてこの作文では。

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