これを好むにしかず
最近、どういうわけかテレビで養老孟司をみかける。
先月行った高松港の待合室で、ぼーっとしていたら、
テレビで養老孟司が顕微鏡で虫をたのしそうに覗いていた。
養老孟司のエッセイでも
「学問研究は「これを好むにしかず」で~」
と言っているし、
ほかのことは無視して、とにかくこれをやっていたい
ということを突き詰めている。
そんな様子を見て、古いベンチに座りながら、
なんでだか、ほっとした。
物理学者のファインマンも、
「自分の」仕事を進めるには周りのことは
一切無視することだ、と言っていた。
どうしたって周りの動きが気になってしまう自分には
そういう一言が励みになる。
いまやいろんな情報共有の手段があるから、
意識しないと、なかなか無視しきれない。
ほかの人が気になってしまう。
自分の好きだと思うことに
張りついて楽しんでいていればいい。
気を外らしてんじゃないよ、と自分を叱りたくなる。
*
そんなこともあって、
養老孟司が気になっていたら、
別の番組でこんなことも言っていた。
戦前くらいの時代は、子供が親よりも早く
死んでしまっても、おかしくない時代だった。
病気に対応する医療も、今よりも少ないので
子供が死ぬということの受け止め方が、
現在と昔とでは違ったのだという。
となりの家の子が死んでしまった、とすると、
つぎは我が子がと思っても不思議ではない。
「あの子の命もいつ終わるかわからない。
そんな子がめいいっぱい遊んでいるのをみても
にこにこと、遊ばせてやったものだった。」
いまでは、子供は大人が守っていさえすれば
死ぬわけがないものだと、信じられている。
だからこそ、怪我も、事故もなく、
不測の事態に巻き込まれないように、規制をはる。
そして、子供はかならず大人になるものだ、
という前提で「教育」される。
そうなると、「子供」の時代が、大人になるための
準備期間になってしまう。
からだを動かして、楽しければそれでいい、
というだけでなく、
大人になってから活かされるきっかけにせねば、
という使命感のようなものを大人は勝手に背負う。
教育が未来への貯金のようになってしまうと、
なんか違和感があるように思えてくる。
子供は子供の時間があるということを、
念頭においておければいい。
周囲を無視した上で、
自分に対してど正直であれば、と思う。
実際には難しくても、せめてこの作文では。
2016/03/26