からだから無限のレシート
ずいぶん前のことなのに、
やたらと覚えていることがありまして…
それは「チャボとけやきと泰山木」
というタイトルの本。
もう10年くらい前に買った本なのに
なにかの折にふれてときどき思いだすから
すっかり記憶に定着してしまった。
内容は、小学校の子どもたちが
校長先生へ宛てた詩をまとめた本で。
たとえば、こんな詩があります。
*
わたし(五年生女子)
わたしは自分がやになるときもあるの
でも自分がいいなあとおもうときもあるの
そういうときは どうすればいいのかな
*
けやき(三年生女子)
けやきを下からみていると
はっぱがゆれているけど
けやきをななめからみると
けやきのみきも
ゆれているようだ
*
とこんなかんじ。
大人になるにしたがって
実用的な言葉こそが大事になってくる。
だから、いまこういう詩を読んでも
なんてことのない感じがしてしまう。
大人はもっと、
〇日になにがあるとか、
なにを買ってくるとか、
こんな理由があってこうなんですとか。
すべてが意味のボールとなって飛び交う。
そのかわり、というのか
感じたこと、なんだかいいなと思う
透明な気持ちは、だいたい
「すてき」や「かわいい」で済まされる。
もしくは感じたけど、
幽霊や迷信でも見るような感覚で、
自動的にリセットしてしまっている。
本当は「わたし」自身を
嫌だと何度も思うし
好きだとも思うのに、
そこにはっきりと実用的な意味が
見いだせないわれらは
あたかもなにもなかったように
日々を進んでいく。
けやきの木を見上げてきれいと思っても
それが誰かに伝えるべきトピックとしては
役に立たない、と思って、それ以上
「きれい」の先を味わうのをやめる。
そんなことないって思いつつも、
自分だってそんな大人の一人なんだ。
と、この本を読んで身につまされる。
*
そもそも意味もない役にも立たないのに
どうして詩を書く必要があるの?
という答えとして、
この本にはこんなふうに書かれています。
「感じたことを把握する力、その力の
集積を根気強く続けること。」
文章力でもなく、想像力を
豊かにするでもなく、
創造をかきたてるでもなく…
把握する力か。
そのとき、
ぼくの中からレシートが
しゅるるるっと、永遠にはきだされている
イメージがうかびました。
自分が感じたことが
ことこまかに記されたレシート。
しかもそのほとんどを受け取らずに
捨ててしまう。
詩を書く、ということは
そのレシートをつかんで読むこと。
ただそれだけ。
弱点を伸ばす、できないことを克服する
のではなくて、
それぞれの自分を見つめて把握する。
それならできそうという気がしてくる。
*
自分のなかに「からだ」という
レシートを発行している
もうひとりの自分がいる…
ということなんだよな。
突然へんなたとえだけど
海中に泳ぐ亀のせなかを小魚が
つんつんとしている映像をみたときに
「自然と一体となって雄大に生きているなあ」
と思ったりする自然そのものが
じつは自分のなかにもあって、
それが見えないレシートを常時
吐き出し続けている。
すべてをつかみとるのは
難しいんだけど、
一日に、一つくらいは把握しておきたいな。
2022/08/10