おもんぱかる人
電車に乗って窓の外を眺めていると、
駅近くのロータリーに標語の看板が
見えたりする。
たとえば、こんなもの。
「きれいな街はわたしたちの手で」
「あなたのその手がきれいな地球を」
「あいさつはひとりひとりの心がけ」
これをみて、はっと思うことがある。
はっとしたのだけど、
それを説明する前に別の話を。
*
とある小学校で英語を教えることに
なった方と話をする機会があった。
小学校でも英語を教える科目が
追加されたということで
「どう教えるか」だいぶ研究して
考えた結果、
「まずは国語が大事なんです」
と言っていた。
その心は、と問うと
日本語は述語を省略できちゃうから
という答。
だって「先生、トイレ」で意味は
通じちゃうし、
自分の「考えたこと」でも、
「提案」でも、「感じたこと」でも
一括で「〇〇だと思いました。」
と言えちゃうでしょう。
一方で英語には着実な述語がある。
「I think~」
「I suggest~」
「I feel~」
と意図に合わせて分けて話す。
「述語を意識」したしゃべり方。
「日本語は主語を省略する」ってのは
よく聞く話だけど、
述語さえも省略(あるいは単一化)
してるのは気がつかなかった。
要するに、日本語でこれまで培われた
「述語無意識系」に慣れた自分たちが、
突然「述語意識系」である英語に
自然になじめないのは、
当然といえば当然のように思えてくる。
「元来の思考経路からして違うでしょう」
だからこそ、日本語でも述語をしっかり
意識するというのが英語には大事なのだと、
その方は言っていた。
にしても、日本人にはなぜ、
省略してもふつうに話が通じるのか。
きっと日本人は想像する、慮る習慣が
というか癖があるんじゃないか。と、
思ったりする。
曖昧で適当な日本語。
だけど、聞く人がその状況に応じて
意味を想像して(あるいは直感的に)
理解し感じて、応えているんだと思う。
ちょっと前に少し流行った
「慮る(おもんぱかる)」という言葉が
まさに日本的なのかもしれない。
*
さて、最初の標語の話。
「きれいな街はわたしたちの手で」
「あなたのその手がきれいな地球を」
「あいさつはひとりひとりの心がけ」
は述語がない。
意地悪な目で見ると、
…でどうするの?と考えてしまう。
つまり、述語ないけど?と
ツッコミを入れたくなる。
「きれいな街はわたしたちの手で
汚す!」
かもしれないし、
「あなたのその手がきれいな地球を
破壊する」でもいいし、
「あいさつはひとりひとりの心がけ
ではどうにもならない」
なんて風にも言えるけど?みたいな。
文法的には意味を一つに絞れていない。
だけど、基本的に、標語には、
よい方に意味を持ってくるだろうね。
という無意識の読みはかりがある。
述語をいわない、おもんぱかる人たち。
どんだけ述語言ってないか、
自覚しながら過ごしたら面白いかな、
と思う。
2017/03/19