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おもんぱかる人

電車に乗って窓の外を眺めていると、
駅近くのロータリーに標語の看板が
見えたりする。
 
たとえば、こんなもの。
「きれいな街はわたしたちの手で」
「あなたのその手がきれいな地球を」
「あいさつはひとりひとりの心がけ」
 
これをみて、はっと思うことがある。
はっとしたのだけど、
それを説明する前に別の話を。
 

 
とある小学校で英語を教えることに
なった方と話をする機会があった。
 
小学校でも英語を教える科目が
追加されたということで
「どう教えるか」だいぶ研究して
考えた結果、
「まずは国語が大事なんです」
と言っていた。
 
その心は、と問うと
日本語は述語を省略できちゃうから
という答。
だって「先生、トイレ」で意味は
通じちゃうし、
自分の「考えたこと」でも、
「提案」でも、「感じたこと」でも
一括で「〇〇だと思いました。」
と言えちゃうでしょう。
 
一方で英語には着実な述語がある。
「I think~」
「I suggest~」
「I feel~」
と意図に合わせて分けて話す。
「述語を意識」したしゃべり方。
 
「日本語は主語を省略する」ってのは
よく聞く話だけど、
述語さえも省略(あるいは単一化)
してるのは気がつかなかった。
 
要するに、日本語でこれまで培われた
「述語無意識系」に慣れた自分たちが、
突然「述語意識系」である英語に
自然になじめないのは、
当然といえば当然のように思えてくる。
 
「元来の思考経路からして違うでしょう」
だからこそ、日本語でも述語をしっかり
意識するというのが英語には大事なのだと、
その方は言っていた。
 
にしても、日本人にはなぜ、
省略してもふつうに話が通じるのか。
きっと日本人は想像する、慮る習慣が
というか癖があるんじゃないか。と、
思ったりする。
 
曖昧で適当な日本語。
だけど、聞く人がその状況に応じて
意味を想像して(あるいは直感的に)
理解し感じて、応えているんだと思う。
 
ちょっと前に少し流行った
「慮る(おもんぱかる)」という言葉が
まさに日本的なのかもしれない。
 

 
さて、最初の標語の話。
 
「きれいな街はわたしたちの手で」
「あなたのその手がきれいな地球を」
「あいさつはひとりひとりの心がけ」
 
は述語がない。
意地悪な目で見ると、
…でどうするの?と考えてしまう。
つまり、述語ないけど?と
ツッコミを入れたくなる。
 
「きれいな街はわたしたちの手で
汚す!」
かもしれないし、
「あなたのその手がきれいな地球を
破壊する」でもいいし、
「あいさつはひとりひとりの心がけ
ではどうにもならない」
なんて風にも言えるけど?みたいな。
 
文法的には意味を一つに絞れていない。
 
だけど、基本的に、標語には、
よい方に意味を持ってくるだろうね。
という無意識の読みはかりがある。
 
述語をいわない、おもんぱかる人たち。
どんだけ述語言ってないか、
自覚しながら過ごしたら面白いかな、
と思う。

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