いのちの居場所vol.2
電車から降りて、改札を出て、
駅の階段を降りているとき、
下の方から風がふいてきた。
涼しくてきもちいい。
この風はどこから来たんだろう、と
想像してみる。
よく分からないけど、海の方からだろうか。
少なからず、日本ではない、
まだぼくが行ったことのない異国の匂いを
ふくんでいるんだろうなと思うと、
いいなという感じになる。
コンビニに行ったり、電車に乗ったり、
どでかい道路をわたってビルの中を
うろついて買物したり、人と話したり、
カフェにいったり、、、という
つまり、ごく普通のことをしていると、
自分のいるところが、うまいこと
はぐらかされているような気になる。
人口でできた文化なかんじの世界で
地球が完結しているような、
(このあたり、言い方がむずかしい)
暮らしているような気になっている。
*
自然のことを忘れてもいいような
システムになっている。
ぼく自身が、そうだから、
夕陽がきれいとか、風がきもちいい
と感じると、
あ、そういえば、地球にいるんだった。
と思い出した様に思う。
江戸初期の新田村落の人たちなんかは
自然と直にやりとりしようとしていた。
水を得たり、食べ物つくったり。
いま、コンビニで売っているから、
食べ物はひとまず安心だ、
トイレがあるから街はそれなりな
清潔さを保っている、とか、
そういう人間が作ったシステムに
完全に頼り切って暮らしているのと
多分おなじように、
昔の人は自然に頼っていたのだと思う。
現代では私たちはお客さまなので、
不祥事があれば、怒ったりできる。
でも昔はとんでもない。
自然はひどいトラブルメーカーという
一面も持っていんだから、
怒ったところでしょうがない。
むしろ、人間たちが自然のことを
よく考えて一緒に暮らして行けるような
工夫を重ねていたのだろう。
前回書いた「コペルニクスの鏡」の
作者である清水博が言うのは、
生命の地動説ということなんだって。
現代は「生命の天動説」。
簡単にいえば人間が自己中になっている。
神社を作るのは、
自然と人が一緒に暮らしている、という
約束事を交わして、
ここにいてもいい、という居場所を
作っている具体的な証拠なんだろうな。
清水氏の言うところの「いのちの居場所」が
そういうことなんだろうなと思う。
※後日、文章を修正して
もうちょっと読みやすくします。
2015/09/03