「未来」よりも「来月」がいい
「未来」というと、なんとなく恰好がつく。
未来の目標、未来の約束、未来の仕事などなど。
けれど、同じような意味でも、
「来月」といったらどうだろう。
来月の目標、来月の約束、来月の仕事。
突然、夢も希望もなくなったような
現実感がただよう。
でも、実際ぼくたちは
この現実感の中でずっと暮らしているわけで
本当に大切なのは、
未来よりも来月の方だと思う。
未来を変えるにも、
まずは来月から変えていかないと
はじまらないという気がするし。
「未来」は遠くにいるアイドルのようだが、
「来月」は隣のおじちゃんという感じ。
*
アーサー・ビナードという詩人がいて
詩のみならず日本語への翻訳もされている。
なかでも「ガラガラヘビの味」(岩波少年文庫)
というアメリカの詩を集めた訳書が
とても好きで気になっていた方でした。
(その本を一緒に翻訳された木坂涼さんは
彼の奥さんなのだそうです!)
動物の写真資料を探しているときに
「ずっとずっとかぞく」という海外の
写真絵本を見つけて、
写真もさりながら文章もいいなあと
おもって眺めていたら
翻訳がアーサー・ビナードさん。
著者であり写真家の
ジョエル・サートレイさんのあとがきの
文章の中を
アーサーさんはこう翻訳していた。
(世界の動物を撮影するなかで、
美しい動物たちが絶滅の危機に瀕している
ということに気が付く)
「へたをすれば明日あるいは来月、あるいは
来年あたり、森がきりたおされて
彼らが絶滅においこまれるかもしれない
と想像して、ゾッとする。」
…
こういうことを伝える時、
自分だったら、
「近い未来、森がきりたおされて…」
と言ってしまいそう、と思う。
明日あるいは来月、あるいは来年…と
長い言い回しを、わざわざする人は
なかなかいないんじゃないかな。
続いてジョエルさんは、
動物たちの美しいポートレートを
通してたくさんのニンゲンに
手わたしていく、そして、
写真を通してノアの箱舟(フォト・アーク)を
つくっていきたいと続ける。
「ぼくが動物のポートレートをいまもこつこつ
撮りつづけているのは、
見つめ合って好きになるキッカケを
いっぱいつくりたいからだ。
明日も来月も来年もずっとつづけるだろう。」
*
ここで出てくる「明日、来月、来年」ということは、
言葉としての重みが感じられる。
(特に来月、が!)
そして、もしここで「未来」という
言葉を使ったら、すこし軽薄な印象を
受けるかもしれないよな。
明日、も来年も、すこしちやほやされすぎた。
「来月」はそのあたり、こつこつと
現実感の中に浸ってきた言葉だけある。
思いを、今ここにいる自分の責任として
受けとめて腰を上げて行動する、
という具体さが
明日に引き継がれ、来月に引き継がれ
そういう覚悟が感じられる。
*
ことばは、解釈の次第で
意味を変えるし、
解釈が変わると、読んだ者の視点も変わる。
どう読むか、どう捉えたか、
このことに注目してみるとおもしろい。
次回は「ずっとずっとかぞく」の内容に
ついて書きます。たぶん。
2021/02/21