「同じ」であると困ること
「同じ」と「違う」について、
なんだか気になる。
たとえば、「コップがほしい」と
思い立つとする。
ようし、とやる気がわいて
電車に乗って買い物に出る。
そのとき、頭の中にある「コップ」が
どういうコップか分からんが、
とにかく良さそうなコップの
イメージが浮かんでる。
お店について、
店内をうろうろしていると、
「なにかお探しですか」と
店員さんが声をかけてくれる。
「あ、コップを探してるんです」
というと、すぐにコップの売り場に
案内してくれる。
ざーっと眺めると、
「うーん、違うんだよなあ。
こういうんじゃないんですよ。なんか」
と思ってしまう。
陳列されているのは、
どれもコップといえば、
コップなのに、全部違う。
*
車だってそういうことがある。
車の免許をもっていて、
運転にも慣れているから、
自分は車を運転できると。
けれど、ポルシェ911を運転してくれ、
と突然言われたら、
いや、そういう車はちょっと、
仕様が違うから、ねえ。
と思うこともある。
*
誕生日に何がほしいと聞いたら、
ジャケットかな、というので
良さそうなのを買ってプレゼントすると、
これかあ~、とイメージと違う反応を
頂いたり。
*
言葉の上では、通じているつもりでも、
実際のところ、違ったりする。
人と、共有することでもそうだし、
自分の中でなにかを考える時もそう。
具体的なところに落としこまないまま、
納得してしまうと、
それはもしかしたら、本当に分かったり、
知ったり、理解したことに
ならないのかもしれないな。
言葉は、違うことを「同じ化」してしまう。
それが、とても便利である一方、
こんなことも起こる。
*
それは絵の話なんだけど、
「犬描いて」と言われたので、
こういう絵を描くと、大体の人が納得する。
でも、「この犬種は?」
と突っ込まれると、分からない。
だからと言って、
ベドリントン・テリアを描くと、
いや、これは犬って分かりにくいから、
もっと王道な犬を描いてよ、と言われる。
記号化された絵は、言葉と同様
「同じ化」されているので、伝わりやすい。
が、伝わりやすさを優先していると
絵がどんどん記号化してしまう。
これは果たしていいのか、悪いのか。
*
吉田戦車の「伝染るんです」
という四コマ漫画でこんなのがあった。
ペットショップで、怪しい男が
「犬をください」という。
店員さんは笑顔で
「こちらのチワワなんか人気ですよ」
というと、
「違います、私がほしいのは犬です。」
店員さんの笑顔は引きつって、
「しば犬なんかはオーソドックスですが…」
といっても、
「いいえ、そんなんじゃなくて、
犬がほしいんです。」
…こういうシュールなことを、
ぼくたちは知らずにやっているんです。
2019/07/04