「みんな変」がふつう。
多様化を認めるっていうのは、
ぼくとしては、うれしいこと。
普通でいる、ということの
タガを外した感じが好きだから。
虚ろな街 上 (潮文庫)
(ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち)
の本に出てくる子供たちのような、
それから、
最近サーカスの絵を描くんだけど、
その時に見た資料に出てくる
特殊なタイプの人たちや、
彼らが集まる特殊な居場所感が、
ぼくには、どことなく心地よく感じる。
(特殊なタイプの人たちとは…
両手、両足がなかったり、
毛むくじゃらの女性だったり、
極端に太った人や背の高い人、
顔は紳士なのに体は子どもな人等…)
小人ボクシングの話を
ちょっと聞いたことがあるけど、
「そういう人たちにボクシングを
させるなんて、人種差別だ!」
と言う人がいらしい。
でも、じつのところ、
低賃金であるにせよ、
彼らはそこで稼いで、生活をしている。
ボクシングをして観客がいる
という居場所も成立している。
それを第三者が、人種差別だから、
小人にボクシングをさせては
いけない、ということになったら、
彼らの居場所はどうなって
しまうのだろう?
「平等」や「人種差別反対」といった意見は
時々、いったい誰の得になるのだろう?
ということが、あるようだ。
*
つまり、
「普通ではないことを普通だ」と
思う方がいい、ということ。
さらに言うと、
普通というのはメジャーである
というだけで、
「普通」ということ自体も
外側からみれば、全然ふつうではない
なんてことがよくある。
多様性を認める、ということは、
言い換えると、
「みんな変。」と自覚しておくこと。
「みんな変が、普通」です。
*
ぼくが、ことばあそびを実験している
根っこには、
そういうところがあるんだと思う。
そういうところっていうのは、
言葉(日本語)を使うことが
当たり前すぎて、ほとんど無の状態
であることに対して、
「でも僕たちの普通って、
本当は変なんだよ」という気づき。
自分は、普通でいる、と
思ったとたんにバカの壁ならぬ、
「普通の壁」が立ちはだかる。
自分たちの使っている日本語って
けっこう変だぜ、
と気が付けると、なにがいいか、って
ただただ、「面白い」だけなんだけど。
学びでも、啓蒙でもなく、
面白くない?というだけ
だけど、
本当に面白がってくれたら、
それが一番。
*
で、ここからが、本題なんだけど、
長くなるから次回。
次は具体的に、日本語の変さを
どうやって面白がってもらえるか、
のネタを書きます。
2019/04/28